この世で一番遠い星

 星と聞いて、人は何を想像するだろう。一般的には、希望や願いの成就といったものだろうか。しかしそれらの答えは、アルハイゼンにとってはあまりにも抽象的だった。
 例えば、隣で夜空を見上げるのに夢中になっている男は人呼んで『妙論派の星』であるわけだが、星と名の付く以上、彼がアルハイゼンにとって最も身近にある星と言えるかもしれない。
 星と呼ばれる男は、その名を良しとしないくせに、今は異国の空を覆い尽くす星々を指差し、やや興奮気味に言った。
「モンドに旅行に行くって言ったら、レイラが星のことを教えてくれたんだ。星拾いの崖のことも一緒に。占いは出来ないけど、星の名前を少し覚えてきたぞ」
「なるほどな。……あの星の名前は?」
「簡単だな」
 アルハイゼンが夜空で最も目立つ青い星を指さすと、カーヴェは得意げに答えを言った。誰でも知っているような、とても有名な星の名前だ。
「じゃあ、あれは?」
 アルハイゼンが次に指差したのは、先程の星よりもずっと暗く、チカチカと赤く瞬く星だ。
 カーヴェは難題に遭遇した時のように呻き声を上げた。
「小さいけど、瞬きが強い赤い星か……」
 暫しの間の後、カーヴェは正解を口にした。
 アルハイゼンが空を指さすたびに、カーヴェは悩みながらも星の名前を言い当てていく。
 しかしやがて付け焼き刃の知識では立ち行かなくなったらしく、カーヴェは降参の意を示す。
「彼女から星座盤を借りてくるべきだったな。この暗闇で見えたかどうかは疑問だが」
「おい……君の方が星に詳しいじゃないか!」
「前に天体に関する本を読んで、星の名前をいくつか覚えていただけだ。詳しいって程じゃない」
「嫌味か!」
 カーヴェは叫んで、柔らかな草で覆われた地面に倒れ込んだ。不貞腐れたようにアルハイゼンに背を向けていたが、すぐにころりと寝返りを打ち、天を仰ぎ見る体勢へと変わった。
 お互いに黙り込む。聞こえるのは吹き抜けていく風が草を揺らす音だけだ。詩人であればこの状況を適度な装飾と共に言葉に表すのかもしれないと、学者であるアルハイゼンは考えていた。
 やがてぽつりとカーヴェが呟く。
「静かだ」
「ああ」
 モンド城の町の灯は遥か彼方だ。月のない夜、明かりのない野外の暗闇に目が慣れてくると、隣にいるカーヴェの表情がうっすらと読み取れるようになっていた。
 気が付くとカーヴェは目を閉じていた。まさか眠っているのかと目を凝らして見つめていると、不意にぱっとその目が開き、カーヴェは上体を起こしてアルハイゼンを睨み付けた。
「おい、僕の顔を見てないで星を見ろよ!」
 指摘されてようやく気付く。アルハイゼンは暗闇で熱心にカーヴェの表情を凝視していた。
「ほら、君もこうして仰向けになってみろ。崖の周りに高い場所がないから、視界いっぱいに星空が見えるんだ」
 カーヴェに促され、仰向けに寝転がる。青い草の匂いを感じながら、暗い空に溢れかえる星々に向き合う。この光景は確かに圧巻であることは認めざるを得ない。
「言葉も出ないようだな」
 嬉しそうなカーヴェの声がした。
 何とでも言うといい。そう思っていると、再び仰向けになったカーヴェの指がアルハイゼンのそれと触れ合う。ぴくりとカーヴェの指が震えるのを感じた。
 どれくらいの時間が経っただろう。数秒か、あるいは数分か。カーヴェがぎゅっと拳を作り、素早くアルハイゼンの手から離れていった。
 アルハイゼンには指を絡ませる無謀さはおろか、何事もなかったかのように離れる勇気さえ出なかった。
 自分は、こんなに臆病な性格ではなかった。そのはずだ。
 カーヴェが静かな声で言う。それには取り繕う響きも、揶揄する気配もなかった。
「……綺麗だな」
 アルハイゼンは答えなかった。
 星などよりもずっと近く、すぐ隣にいるというのにこんなにも彼は遠いのだと、思い知らされている最中なのだ。