きみだったらいいよ

 金色の三つ編みが落ち着きなく揺れている。
 図書館の片隅、本棚の陰から何かを窺うようにしている後ろ姿はアルハイゼンがよく見知った者のそれだ。
「カーヴェ先輩」
 背後から肩を叩くと、カーヴェは飛び上がらんばかりに驚いた。
 振り向いたカーヴェはアルハイゼンを見るや否や、腕を掴んで本棚の陰に引っ張り込んだ。
「何をしているんだ?」
「しーっ!」
 口の前に指を立ててアルハイゼンを黙らせた後、本棚越しにある方向を指差した。先程カーヴェが見ていた方向だ。
「見てごらん」
 カーヴェが示した先には一組の男女の学生が見える。二人は本棚にもたれかかるようにして会話をしているが、何を話しているかまでは聞こえない。
 しかし見るからに甘い雰囲気に包まれていて、カーヴェが近付くことを躊躇うのも理解できた。
「覗き見か。いい趣味だな、先輩」
「違う。彼らが僕の見たい本棚の前で話し込んでるから困ってるんだ」
「用があるなら気にしなくていいと思うが」
「邪魔しちゃうだろ」
 本棚の陰でこそこそとしている間にも、男女は抱き合ってキスをし始めた。物陰に見物人がいることにはまったく気付いていない。
「どうする?」
 カーヴェが問いかける。答えるまでもないだろう。
 本棚に向かって一歩を踏み出した途端、両肩を掴んで止められた。
「僕が悪かった、だからやめてくれアルハイゼン。そっとしといてやるんだ」
 それではカーヴェの用が済まないではないか。そう言おうとしたが、当の本人が良いと言っているのだからそれ以上の追求に意味がないことに気付き、アルハイゼンは口をつぐんだ。
「君だって用があって図書館へ来たんだろう? 君の用事を済ませて戻ってきたら、彼らもどこかへ行っているかもしれない……そう願おう」

 教令院の者であれば、図書館は昼夜を問わず利用できる。いつ来てもここでは必ず学者の姿を見かけるが、それは一般的な開架でのことだ。
 禁帯出の本ばかりが収められたあたりまで来ると、すっかり人がいなくなる。外に持ち出すことを禁じられた本はあまりにも古く、だがそれこそがアルハイゼンの読みたかった内容でもある。
「アルハイゼンってキスしたことあるのかい?」
 アルハイゼンが本を探している間、手持ち無沙汰になったカーヴェが唐突に言った。
「突然何を言うんだ?」
「別に……さっきの彼らを見てたら、気になっただけだよ」
「ない。……興味があるならしてみるか?」
「はあ?」
 カーヴェが図書館中に響き渡るような声量で言った。さすがにまずいと感じたのか、それ以降は必要以上に声を抑えてアルハイゼンの非難を始めた。
……君ってやつは……そういうのはお酒を飲んでいる時とかに言うものだろ?」
「俺は未成年だから飲酒はできない。もちろん酔ってもいない」
「そうじゃなくて……!」
……冗談のつもりだった」
「なっ!?」
 カーヴェが絶句する。つかつかと歩み寄り、アルハイゼンの胸ぐらを掴む。
 カーヴェはアルハイゼンを不機嫌そうに睨み付けているが、最近彼の身長を追い抜いたアルハイゼンに恐怖を与えることはできなかった。
 問題はその後だった。
 カーヴェはアルハイゼンを引き寄せ、唇のすぐ横にキスをしたのだ。
 アルハイゼンを解放したカーヴェは悪戯っぽい笑みを浮かべ、あまつさえ堪えきれないといった様子で笑い声を上げた。
「ふふっ」
「どうして笑うんだ」
「いや、君のほっぺたが思ったよりやわらかくて、ちょっと面白かっただけだよ」
「面白がっているのは先輩だけだ」
 キスされた場所に手で触れる。自分ではよくわからない。毎日顔を洗う度に触れているが、取り立てて言う程の柔らかさではない。笑われるほどおかしいことなどないのだ。
 アルハイゼンの背丈はいつの間にかカーヴェに並び、あっけなく彼を追い越した。それでも彼はアルハイゼンを入学したての、恋の字も知らない子供のままだと思っている。
「カーヴェ」
 両頬を手で挟んでこちらを向かせると、カーヴェは長い睫毛に縁取られた瞳で見つめてくる。
 アルハイゼンを微塵も疑っていない目と向き合うことができず、目を閉じる。
 幾度となくアルハイゼンの名を呼び、笑い、カップの縁に触れるカーヴェの唇をよく知っているつもりだった。だが、こうして噛み付いたカーヴェの唇は想像よりずっと柔らかかった。
「っぁ、るはいぜ……っ!」
 苦しそうにアルハイゼンの名を呼ぶその声ごと唇で塞ぐ。
 嫌だと思うなら抵抗をしろ。突き飛ばして逃げてくれ。その為にカーヴェの身体を抱き寄せるのを我慢しているのだから。
 そう思うのに、カーヴェは腕の中で徐々に抵抗をやめるどころか、アルハイゼンの背中に手を回してきた。
 舌先を触れ合わせ、お互いの唇を吸う度にあられもない音が響く。
 誰かに聞かれたり、人が来てしまうかもしれないと頭の隅ではわかっている。
 やがて疲れたカーヴェが自ら離れるまで、熱烈な口付けは続いた。
「なぜ、逃げないんだ?」
 息も絶え絶えに問いかけると、同じく息を切らしたカーヴェは首を傾げた。
「えぇ……? なんでって、言われても……
 カーヴェは少しの間悩んだ後、そっとアルハイゼンの耳に唇を寄せた。
 そして耳元でひっそりと囁かれた言葉に、何と返すべきかわからずアルハイゼンは黙り込む。
……なんか言えよ」
 むっとしたカーヴェの顔を見ながら、じっくりと答えを探す。
 歯の浮くような言葉は性に合わない。そんなことを言ったらカーヴェの笑いを誘うだけだ。
 飾り立てた言葉より、先程彼に言われたことが全てを性格に表している。
 だから、これが正解だ。
「俺もだ。先輩……、カーヴェ」