甘く苦く、甘く

「試験前なのに優雅だな、君は」
 カフェのテラスで頬杖をついているカーヴェを見つけ、声をかけるとカーヴェは素早くアルハイゼンが手にした本に視線を走らせた。
「暇を持て余して読書をしているやつに言われたくないな」
「それで、試験前に呼び出したのは?」
 会う度にお約束のようになった嫌味の応酬を済ませ、カーヴェと同じテーブルにつく。
 カーヴェはテーブルの中央に置かれた皿を見た。つられてそれを見ると、バクラヴァが二切れ、ちょこんと皿の中央に盛られている。
「試験前といったらこれを食べるのが教令院の学生におけるしきたり……とまでは言わないけど、糖分補給にはうってつけだ。君に教えてあげよう」
「いらない」
「おい、一緒に食べようって誘ってるんだぞ! この僕が、君のために!」
「……お茶があるなら考える」
 カーヴェは早速アルハイゼンの為に砂糖なしの茶を注文した。注文が間もなく運ばれてきたのを合図に、アルハイゼンは添えられた食器からフォークを選んで手に取った。
「本が汚れる。俺はフォークを使う」
「こういうのは手で食べるもんだぞ」
 文句を言いつつも、カーヴェはバクラヴァをひとつ手に取り、両手で均等に割ろうと試みた。
 試験前にはよく出るらしいメニューだからか、出来立てのバクラヴァはシロップが完全に染み込んでおらず、パリパリと音を立てながら香ばしい生地の欠片が皿の上に降り注ぐ。
 生地を損ないながらもバクラヴァは最終的に七対三の大きさに分けられたが、二つに分かれた瞬間を見ていたアルハイゼンには千切れたようにしか見えなかった。
「ほら」
 カーヴェは当たり前のように二つに割った大きい方をアルハイゼンの前に突き出してくるが、こんなにはいらない。
「こっちでいい」
 突き出されたのとは反対のカーヴェの手首を掴み、バクラヴァを摘んだ指ごと口に含む。
 口に入れた途端にバターの香りが鼻に抜け、噛めば幾重にも重なった生地が割れる軽い食感の後、シロップとバターの混ざり合ったどっしりとした甘さが口の中にじゅわりと溢れる。底に近くなればなるほどシロップを吸っていて、噛めば密度のある食感だ。半ばに仕込まれた粗く刻まれたナッツの存在がアクセントになっている。
 美味だ。だが歯にしみるほど甘い。
 アルハイゼンがバクラヴァを噛みしめている中、カーヴェも片割れのバクラヴァを口に入れた。
「甘い……」
「うん……」
 カーヴェは口の中のバクラヴァをコーヒーで流し込んだ。アルハイゼンも茶を飲まずにはいられなかった。普段は砂糖を入れて甘くして飲むのが一般的な茶だってが、今日ばかりは甘くないのがありがたかった。
 茶を飲むアルハイゼンを見てカーヴェが口を開く。
「お茶よりコーヒーの方がいいんじゃないか?」
「俺はお茶で十分だ」
「知ってるぞ。コーヒーが飲めないんだろ?」
 弱点を言い当てたとばかりにカーヴェは得意顔だ。
「わかっているなら質問するな」
「はいはい。ふふ、子供だなぁ」
 馬鹿にした笑みを浮かべ、カーヴェはこれ見よがしにコーヒーを口にした。
 食の嗜好を弱点と捉える感性がアルハイゼンには信じがたいことだった。
 コーヒーが飲めないから何だというのか。第一、そのコーヒーにだって砂糖が入っているはずだ。確認してやろうか。
「何だよ、怒ったのか?」
 突然立ち上がったアルハイゼンをカーヴェが見ている。その顔はアルハイゼンの報復を警戒していて、手を伸ばすと身を退けた。だが立っているアルハイゼンには問題にならない。
 カーヴェの後頭部に手を添えて唇を触れ合わせる。カーヴェの唇を舐めると苦い味がした。コーヒーはやはりまだ苦手だと思った。
 肩を押されて離れると、カーヴェは口元を手の甲で拭ってアルハイゼンを睨みつけていた。
「……何をしたかわかってるのか?」
「キスをした。君が俺を子供だと言うから否定しただけだ」
「ふざけるな!」
 カーヴェはばたりとテーブルに突っ伏し、蚊の鳴くような声で、しかし確かに言った。
「初めてだったのに……」
 これにはアルハイゼンも動揺した。
 キスなど、いわば皮膚と皮膚の接触に過ぎないことを、初めてか否かでこだわる人間を初めて目にした。
「あとでやり直しをしよう。今のはなかったことにしてくれ」
「……僕より年下のくせに、僕をからかって遊ぶな」
「年は関係ないだろう。からかってるつもりもない」
 突っ伏したまま、カーヴェは振り絞った声で言った。
「もっとよくない……!」
 何を言っても顔を上げないカーヴェの回復を、アルハイゼンは試験開始時刻の十分前になるまで待ち続けた。


 後日、新入生のアルハイゼンが妙論派の天才カーヴェを議論で言い負かして泣かせたらしい、という誤った情報のみで構成された噂が学生の間で囁かれるようになったが、カーヴェはこの誤解を解くために別の嘘をつく羽目になった。
「君のせいだぞ」
 ラザンガーデンの片隅にいたアルハイゼンの前に現れたカーヴェは一通りの文句を言い終えると、腕を組んで溜息をついた。
 噂を揉み消すのはさぞかし骨が折れたことだろう。普段他人と関わりを持たないアルハイゼンですらその噂を耳にしていたくらいなのだ、相当広まっている。
「それで、文句は以上だろうか?」
「文句って……そんな簡単な言葉で片付けることないだろ」
 カーヴェは来た時よりもっと不機嫌さを露わにし、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 アルハイゼンは開いていたページに栞を挟んで閉じ、腰掛けていた花壇の縁に置いた。
 立ち上がると、カーヴェの方がまだわずかに背が高い。並び、追い越すのは間もないとわかっているが、わずかな差はアルハイゼンにとって重要な差でもあった。
 まるでアルハイゼンへ注意を払っていないカーヴェの腕を掴み、引き寄せる。
「この前のやり直しをしよう、先輩」
 驚いたカーヴェの顔がすぐ間近にある。見つめ合うと脈拍が速くなるのが嫌でもわかる。カーヴェには聞こえないことを願った。
「甘いなアルハイゼン」
 唇を奪おうとした刹那、アルハイゼンとカーヴェの間に割って入ったものがある。カーヴェの手だ。
 カーヴェはアルハイゼンの口に強引に何かを押し込んでくる。反射的に侵入してきた異物を噛むと、それは砕けて蜂蜜とナッツの風味が口内に広がった。ナツメヤシキャンディだ。なぜこんなものを持っているのか。
「この間は不意を突かれたけど、僕はそんなに安くないぞ。コーヒーも飲めないようなお子様には代わりにお菓子をあげるとしよう」
 カーヴェはアルハイゼンの腕の中で得意げに笑った。
 彼は気付いているのだろうか。アルハイゼンからはどのみちもう逃げられないということを。
 しかしここで無理強いをして嫌われては元も子もない。
 攻めるべきか、引くべきか。
 口の中で持て余すほど大きなナツメヤシキャンディを飲み込むまでのしばしの間、アルハイゼンは考えることにした。