指先でつつかれるとそこから腐る
祖母の夢を見た。まだ元気だった頃の祖母と、大人のままのアルハイゼンは誰もいない知恵の殿堂を並んで歩いていた。
ありえない状況に、これは夢なのだとすぐに察しがついた。
祖母は本棚の一つの前で立ち止まり、アルハイゼンに向かって何かを話しかけたが声は聞こえない。ヘッドホンの遮音機能をオフにしなくては、と耳元に手をやるが、そこには何の手応えもない。
戸惑っている一瞬の間に祖母の姿は目前から消えていた。どこへ、と視線を巡らせて探すと、知恵の殿堂の出口へ向かって歩く祖母の後ろ姿を見つけた。
待ってくれと声を上げ、追い縋ってもきっと祖母は行ってしまうのだろう。
これは夢だ。追いかけず、見送るしかできない。
どんなに恋しくても、アルハイゼンの人生から既に去った人を追いかけるべきではない。
わかっている。わかっているのだ。
何かを一心に叩く音がして、アルハイゼンは不意に眠りから覚めた。
音は途切れる。しかし暫くするとまた同じように執拗に何かを叩くを繰り返す。
カーヴェだ、と脳が認識すると同時に、アルハイゼンは深く息を吐いた。
窓からは月明かりすら差し込んでおらず、まだ真夜中なのだと知る。カーヴェの立てる騒音に混じって、外からはかすかに雨の降る音がしていた。
暗い部屋の天井を見つめていると、先程まで見ていた夢のことが思い起こされる。
ただの夢だとわかっている。わかっているが、もう二度と会うことはできない人の姿は少なからずアルハイゼンの感情を激しく揺さぶり、寂しさを思い出させた。
ずっと一人だったというのに、何を今更孤独を再認識しているのかと、感情と乖離した冷静な思考が告げている。
寂寥に心を委ねさせるものかとでも言いたげに、一際大きく金槌の殴打音が主張した。
アルハイゼンは暫し考え、ベッドを後にすることにした。
「おい、何時だと思ってる」
「四時だな」
リビングの扉を開けるなり苦情を申し立てたアルハイゼンに、カーヴェは時計を確認して答えた。
その手には金槌が握られており、テーブルの上の作りかけの模型に向かって振り下ろされている最中だった。
「早いな」
悪びれもしないカーヴェの態度にアルハイゼンはため息をついた。カーヴェにはもっと他に言うべきことがあるだろうに。
「そういう君はまた徹夜か。なぜリビングで仕事をしている? 自分の部屋でやれ」
「仕方ないだろ、他の仕事で机が空いてないんだから」
カーヴェは大袈裟に首を振って見せ、やれやれと肩をすくめた。やれやれと言いたいのはアルハイゼンの方だ。
「君は寝てるんだから邪魔にはならないだろ。朝までには片付けるから、君は部屋に戻ってベッドでゆっくり休むといい」
追い払うように手を振るカーヴェを無視し、アルハイゼンはソファのひとつにどっかりと座った。
「目が冴えたから部屋には戻らない。さっさと片付けてくれ」
「……君ってやつは」
「家主は俺だ」
「はいはい、わかってるよ!」
カーヴェは片槌をひらひらさせながら不機嫌に答えた。
これでひとまず騒音を立てられるのは回避した。
睡眠不足のせいだろう、少し頭痛がある。眠気覚ましにコーヒーでも淹れてこよう。
再び立ち上がるとカーヴェと目が合った。いつからかカーヴェは片付けの手を止め、アルハイゼンを凝視していたようだ。
「おい、少し動くなよ」
歩み寄ったカーヴェは片槌を持っていない方の手をアルハイゼンの額にあてがった。
カーヴェの表情が怪訝に歪む。
「ぼうっとしてると思ったら、熱があるじゃないか。大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。熱はないし、ぼうっとしているつもりもないんだが」
「自分じゃわからないだけだろ」
そう言ってカーヴェはアルハイゼンを再び座らせ、自室から毛布を持って戻ったかと思えばアルハイゼンが抵抗しないのをいいことに首から下を毛布ですっかり覆ってしまった。
満足げな顔を睨みつけてみるが、効果はまるでなかった。
「本当に大したことはない。一人暮らしが長いんだ、病気の時の世話くらい自分でできる」
「アルハイゼン……」
カーヴェの顔が悲しげに曇る。アルハイゼンにとっては事実を述べたまでだったが、カーヴェにとっては悲しみを刺激してしまう話だったようだ。
他人に感情移入しすぎるのは彼のよくない部分だが、対象がアルハイゼンである場合に限ればそう悪い気はしなかった。
「君も入れ。仮眠を取るといい」
毛布を広げてカーヴェを招く。
「君、さっき僕にテーブルを片付けろって言ったじゃないか」
「後でいい。……寒気がするんだが」
「……仕方ないな」
アルハイゼンの嘘に騙されたのか、騙されたふりをしたのかは定かではないが、カーヴェはいそいそとアルハイゼンの懐に入り込んだ。
「なあ、具合が悪いなら部屋へ戻った方がよくないか?」
「戻ったら君と一緒に寝られないだろう」
カーヴェの腰を抱き寄せると、腕の中であからさまに身を固くするのが愉快だった。
思えばカーヴェとこんなに近くで触れ合うのは初めてのことだったが、他人の温もりには懐かしさを覚える。
遠い昔、幼いアルハイゼンが体調を崩すと、祖母もこうして寄り添ってくれていた。
「そういえば、家族の夢を見たよ」
「……そうか……」
カーヴェは腰に回されたアルハイゼンの手を握った。アルハイゼンの事情を知っている彼なりに慰めているつもりなのだろう。
慰めが欲しいわけではなかったが、その優しさは愛しい。
「僕も最近夢を見る。いい夢も悪い夢も。悪い夢を見て夜中に目が覚めると不安になるけど、その……」
なぜかカーヴェは言葉を濁す。無言で続きを促すと、さんざん躊躇した挙句に消え入りそうな声で言った。
「朝、起きてきた君に会って、やっと夢が終わったって思えるんだ。だから多分君も……僕がいてよかった、だろ?」
アルハイゼンは返事の代わりにカーヴェの頬に唇を押し当てると、彼は目を丸くしてアルハイゼンの顔を見つめた。
てっきり怒るか照れるかの反応があると予想していたが、カーヴェはふと微笑んで、あっさりとアルハイゼンの唇を奪った。
「おやすみ、アルハイゼン。いい夢を」
かなわない、本当に。
思いがけない時にアルハイゼンを翻弄するのが得意なカーヴェは、一方的に会話をやめて目を閉じてしまった。
会話がなくなると、夜明け前は本当に静かだ。しんとしているのにうるさいのはアルハイゼンの心音と、時折聞こえてくるポツポツという雨垂れの音だけだ。
「晴れるかな」
不意にカーヴェが呟いた。
「さあな」
何がおかしいのか、カーヴェが吐息だけで笑った。
アルハイゼンはカーヴェにもたれて目を閉じる。
カーヴェと二人、晴れた夜明けを待ちながら見る夢はどんな夢だろうか。