グッドモーニング・ダーリン①(未完)

「君は知っていたか、イソップ・カール」
 ジョゼフの端麗な顔が間近でイソップを睨みつける。鋭利な視線がイソップの肌に突き刺さるようで居たたまれない。
「ハンターもハッチの中に入れてしまうらしい」
 ジョゼフの静かな声に怒りが満ちているのがわかる。
 本来であれば、ハッチの中の地下室は最後に残ったサバイバーが脱出するための設備だ。そこに大の男が二人も詰め込まれているのだから、快適なわけがない。
 地下室へと身を投げ出したイソップを捕まえようと、手を伸ばしたのはジョゼフだ。足首を掴まれた。ジョゼフに捕まってしまった。だがその次の瞬間には、二人揃って地下室の中に落ちていた。
 本来ならば先に飛び込んだイソップがジョゼフの下敷きになっているのが自然なのだが、なぜだか体勢が逆転している。ジョゼフの身体に抱きつくような形になってしまい、イソップとしては非常に気まずい。ゲームは終わっているはずなのに、接近しすぎているせいで鼓動が速い。
 美しさを自負するジョゼフにとっても、今の状況は不快以外の何物でもないだろう。
 衣服は汚れ、普段は優雅な曲線を描いている髪は乱れてジョゼフの顔の半分を隠している。
 極めつけに、イソップの化粧箱はなぜかジョゼフの頭の上に奇妙なバランスを保って鎮座していた。これが一番いけない。
「……すみません、僕のせいで」
 このような事態になった責任を追求されている気分になり、思わず謝罪を口にする。だが、ジョゼフの眉間の皺はより深くなった。
「なぜ謝る」
「あなたを巻き込んだのは僕です」
「私が勝手に落ちただけだ。君のせいではない」
 声は苛立っているが、その怒りはイソップではなく、この状況に対するものらしい。
 それよりも、とジョゼフは頭の上に乗った化粧箱をイソップに押しつけ、首をひねって真上を見上げた。つられてイソップも上を向く。四角い入り口が見えるが、とても手が届きそうにない。
「どうするんだ、これから」
「……いつもは、ここから出られるんです。ジョゼフさんには少し狭いかもしれませんけど」
 ジョゼフの右足に塞がれた小さな扉を示す。
「ジョゼフさん、足が邪魔です」
「おい」
「そこに出口が」
 言い終えるよりも早く、ジョゼフはイソップの身体を抱いたまま立ち上がった。
 イソップを床に下ろすとジョゼフは誤魔化すように乱れた襟を正す仕草をした。
「いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。文句は後で聞こうか」
「何も言ってないじゃないですか……」
 イソップはぼやきながら扉を開ける。ダクトのように細長い通路があるのはいつもと同じだった。
「通るのか? ここを?」
「そうです」
 戸惑うジョゼフを後目に、イソップは狭い通路を歩き出す。ここを通らなければ出られないのだから、ジョゼフもついてくるより他はないのだ。
 歩いていたのは時間にして一、二分のはずだが、狭く暗い通路の道のりは長く感じた。イソップよりも身体の大きいジョゼフは膝を曲げなければならず、それで余計に時間がかかったというのもあるのかもしれない。
 ようやく突き当たりを見つけ、手探りで扉を押し開く。
 イソップとジョゼフが転がり出たのは、見慣れた玄関ホールだった。
「屋敷の中か……」
 イソップの背後でジョゼフが呟く。同時に衣服に付いた埃を念入りに払う音がした。
 そもそも、ハンターが館に入っていいものなのだろうか。正面玄関からノックをして訪問したのとは訳が違うのだ。サバイバーの誰かに見つかれば、ハンターが侵入してきたと騒ぎになってしまうだろう。
 だがホールには誰の姿も見えず、しんと静まりかえっている。聞こえる音と言えば時折吹く強い風に窓が揺れる音くらいだ。窓の外はただ暗く、何も見えはしないが、窓枠に雪が張り付いていて、外が吹雪いていることに気付く。ここは凍えるように寒かった。室内だというのに、口から漏れ出る息が白い。
「カール、私と一緒に来い」
 不意にジョゼフに腕を掴まれ、引きずられるようにして階段を上る。
「ここはハンターの館だ」
「え?」
 ジョゼフの言葉に思わず足が止まる。迷いのないジョゼフの足取りに不安を覚えた。イソップは一体どこへ連れて行かれようとしいているのか。
「こら、止まるんじゃない」
「どこへ行くんですか」
「私の部屋だ」
「……帰ります」
「外は吹雪だぞ、どうやって帰るというんだ」
「でも、ハンターの……ジョゼフさんの部屋に泊まるなんて」
 振り向いたジョゼフのイソップを見つめる目は冷ややかだ。その上の美麗な眉はひそめられ、不機嫌であると物語っている。
「そう、私はハンターで、君はサバイバーだ。だが、君はわかっているのか? ここには私以外のハンターもいる。彼らと私、どちらがましなのか考えてみたまえ」
 ジョゼフ以外のハンターといわれて真っ先に思いつくのはリッパーだ。ゲーム中に鼻歌を歌いながらサバイバーを追い詰める彼のことだ、ゲーム外で出会ってもろくなことにはならなさそうだ。猟奇性ではジョゼフよりも上だ。
 せめて芸者か白黒無常であれば少しは話が通じるのかもしれないが、イソップは社交恐怖も手伝って、彼らとまともに親交があるわけではない。
 ならばジョゼフは、というと、彼は元来の高貴な身分ゆえか、庶民であるイソップの顔色を窺うことなくずけずけと踏み込んでくるきらいがある。
 ゲーム外でハンターの姿を見ることがあるとしたら、荘園の主がたまに気まぐれに催すパーティーくらいなものだ。イソップが何度か参加したパーティーで、ジョゼフは何かとイソップに絡んできた。
元よりイソップは他人と楽しく談笑して回れるような性質の持ち主ではなかったので、目立たない壁際でひっそりと一人の時間を過ごしていた。
ところがジョゼフは、奇特なことに目敏くイソップを見つけて声を掛けてきたのだ。一度そうなると、部屋の隅、どんな物陰に隠れていてもジョゼフはイソップを探し出して声を掛けてくるようになった。
 ジョゼフの容姿は華やかで目立つ。彼が歩くだけで視線を集めてしまい、多くの視線を独り占めしたままイソップの元へと赴くのだから勘弁してほしい。
 ジョゼフを避けたいのでパーティーにはもう出ない。心配して尋ねてきたイライにたまりかねてそう告げると、彼曰く、ジョゼフはイソップと親しくなりたいのではないかという。
 そう考えることにしてから、何を考えているかわからないと思っていたジョゼフへの苦手意識は随分減ったのだった。ジョゼフがなぜイソップへ興味を持ったのかはわからないままだが。何せパーティーで何を話したかなど、イソップの記憶には残っていないからだ。
 そのジョゼフは顎を上げ、一際眉をひそめてイソップを見下ろす。傲慢だ、と思った。
「朝までここに留まりたいというのなら無理強いはしないが……だがそうだな、私の部屋には暖炉があるというのは教えておこう」
 イソップの吐く息が白いことに気付いたのか、ジョゼフが新たな情報を提示する。答えあぐねているイソップが首を縦に振りやすいようにしてくれたとも取れるが、真意はわからない。
 ジョゼフの部屋の暖かい寝床か、どんなハンターがいつやってくるとも知れない冷え切ったホールか。安全面と快適さの視点で見れば、答えは明白だ。
「……よろしくお願いします」
「いいだろう」
 ジョゼフが満足げに口角を上げる。獲物を捕らえた時と同じ笑顔を見せられると、この人がハンターであることを思い知らされる。
「ジョゼフさん?」
 不意に掛けられた声に振り返ると、食堂に続くと思われるドアの陰から、芸者こと美智子がこちらを見上げていた。
「……ゲームからお戻りになられましたか」
 美智子の視線はイソップへと注がれている。なぜサバイバーがここにいるのか、と言いたげな視線だが、彼女はイソップについて何も聞かない。
「ああ、今日はもう休むことにする」
「そう……おやすみなさい」
 美智子はイソップを見つめ、二度瞬きをした。イソップがその意味を思いつくよりも前に、美智子はドアの向こうに消えた。
「行くぞ」
 再びジョゼフに腕を引かれ、階段を上る。
「見つかったのが彼女でよかったな、カール。例の紳士だったらどうなっていたことか」
「紳士……?」
「あいつ以外に誰がいるんだ。皮肉は君には通じないのか?」
「……僕がリッパーさんに会うと、どうなるんですか?」
 ジョゼフがせせら笑う。
「確かめてみるか?」
「いえ」
 愚問だった。それきりイソップは口をつぐむ。
 どうかジョゼフの部屋に着くまでにリッパーと出会いませんように、と祈るしかなかった。
 階段を上りきり、左のドアを潜って2階の廊下に出る。基本的な構造はサバイバーの館と同様なのだろう。ということは、この廊下からドア一枚を隔てた部屋にはハンターがいるのだ。
 不意にドアが開いて、他のハンターと鉢合わせる、などという悲劇は御免被りたい。
「一番奥の部屋だ」
 ドアの数は三つ。一つ二つと前を通り過ぎる度に、不意にドアが開かないことを祈ってしまう。
 幸運なことにそのいずれもイソップの目の前で開くことはなく、何事もなく一番奥にあるジョゼフの部屋にたどり着くことができた。
「さあ、どうぞ」
「お邪魔します……」
 ジョゼフに促されて部屋へと足を踏み入れる。
ジョゼフの部屋は、玄関や廊下よりは少しましとはいえ、イソップを凍えさせる程度には冷え切っていた。少しは暖かいかと期待していた分、この寒さは堪える。
部屋の隅で震えていると、ジョゼフが慣れた様子で燭台に火を灯した。うっすらと炎に照らされた室内の奥、そこに光は届かず、闇がわだかまっている。
 イソップが借りているよりもずっと広い部屋だった。サバイバーと同じ部屋の広さでは、ハンターには不都合があるのかもしれない。
「ああ、そうだ。カール」
 ジョゼフは振り向いてイソップへと一歩近づく。咄嗟に後退りすると、背中がドアにぶつかる。
 燭台の光を背にしたジョゼフの表情は窺い知れない。
 ジョゼフがイソップへと手を伸ばす。だがその手は硬直しているイソップを通り越し、背後のドアへとたどり着く。静かな室内に内鍵の閉まる音がやけに大きく響いて、イソップはそこでジョゼフが施錠したことに気付いた。
「このフロアには私の部屋しかないし、他のハンターが私を訪ねてくることは滅多にない。鍵をかけておけば諦めるだろうから安心しなさい」
「……それ、もっと早く教えてください」
「それと、もう一つ」
 ジョゼフはイソップの顔の横に手を突き、美しい顔で迫った。
「君を部屋に泊める代わりに、私に君の何かをくれないか?」
「承諾した後に条件を付け足すなんて……」
「泊まるように誘ったのは私だ。無論、この条件をのまずとも、寝床の提供は保証しよう。断ったからといって君を追い出すことはしない」
「……どうして、僕に親切にするんですか」
「君に興味がある」
 暗闇に目が慣れ、ようやく見えたジョゼフの表情は楽しげだった。目を細めてイソップの出方を待っている様子からは支配者の余裕しか感じられない。
「僕、何も持ってません。あなたが気に入りそうな物なんて、心当たりすら」
「物じゃなくていい、たとえばキスとか」
「……は?」
 今、ジョゼフはなんと言ったのか。キス、と聞こえた気がする。
「冗談でしょう」
 ジョゼフは薄く笑うばかりで否定しない。
「ジョゼフさん……!」
 性悪だ。彼はイソップが戸惑うのを見て楽しんでいるのだ。
 ふと、ジョゼフが首を傾げる。
「どうした? さては、思いを寄せる相手でもいるのか?」
「いえ、そんな相手は……」
「そうか」
 なぜ、少しつまらなさそうな顔をするのか。イソップに思い人がいたとしたら、ジョゼフは潔く諦めてくれたのだろうか。だとすればここは嘘をついて逃れるのが正解ではなかったろうか。
 しかし、一時逃れられたとして、怖いのはその後だ。あの時便宜を図ってやったではないか、その恩を返せと、どのような場面で迫られるかわかったものではない。
 世の中、ただより高いものはないのだ。
 対価がイソップの唇ひとつで済むのなら、悪くはないと考えるべきだ。減るものでもない。
 そうと決めれば、勢いをつけてしてしまった方がいい。考えれば考えるほど決心が鈍りそうだった。
 そう、これは大したことではない。たかが皮膚と皮膚の接触にすぎないのだから。
「失礼します」
 マスクをずらし、背伸びをしてジョゼフにキスをする。やり方も作法もよく知らなかったが、目を閉じるべきということは何となく知っていた。
 感触からすると、どうやら狙った場所ではなく、唇の端にキスをしてしまったらしい。それでもわずかに触れたジョゼフの唇が柔らかいことに気付く。唇の表面が少しも荒れていないことに驚きながらも、かさついたイソップの唇で傷つきはしないか気がかりになるほどだ。
 時間にしておよそ数秒だろうか。やけに長く、気まずく感じているのはおそらくイソップだけだ。堪えられずにうっすらと目を開けると、ジョゼフと目が合う。
 何を考えているのだろう。怯んで一歩下がれば唇も離れる。ジョゼフは追ってはこない。しかし視線は絡めたままでいると、頬に冷えた感触があり、びくりと身を震わせる。
 ジョゼフの長い指が、イソップの頬の輪郭をなぞっていた。
「……いい子だ」
 爪先でくすぐるような触り方に、たまらず再び目を瞑る。ジョゼフが愉快そうに喉の奥で笑う音がした。
 ここにはジョゼフとイソップしかいないというのに、睦言を囁くようにしなくてもいいではないか。化粧箱を持つ手に汗が滲む。こんなに寒いのに。
「暖炉に火を入れてやろう」
 その声に目を開くと、ジョゼフはいつの間にか暖炉の前へと移動し、こちらには目もくれない。
 あまりにも淡泊な反応だった。ジョゼフはキスなど慣れたものなのだろう。ただの戯れだとはわかっているが、イソップの心臓はうるさいくらいに高鳴っていた。どうか早く収まって欲しい。たかが唇と唇の接触で緊張しているなどと、ジョゼフに悟られれば物笑いの種になりそうだ。
 ぼそりとジョゼフが呟く。
「本当にするとは思わなかったな……」
「……ジョゼフさんがしろって言ったんじゃないですか」
「言ったはずだ、私は無理強いはしないとね」
 動悸に振り回されているイソップの気も知らないくせに。非難を込めて、火掻き棒で暖炉を突っついているジョゼフの横顔を睨みつける。
「……それにしても君の唇は氷のようだな。ここで凍死されては面倒だ。だが、どうやって火をつけるんだったか……」
 ちら、とジョゼフがイソップを見遣る。こんなのは私のすべきことではないとでも言いたげに。貴族然とした彼には、たしかに似合わない姿ではあるが。
「……僕がやります」
 せめてもの意趣返しに溜息をついて見せる。豪奢な意匠が施されたカーペットの上に化粧箱を置き、空いた手でジョゼフの手から火掻き棒を奪う。
ジョゼフが掻き乱した灰をならし、暖炉の横に積まれていた薪を並べる。下は大きなものを、その上にはもう少し小さいものを、櫓を組むように垂直に積み上げる。暖炉の上に置かれていたマッチを擦り、適当な木片に火を移す。マッチと火のついた木片を暖炉の中に放り込めば、後は火が広がるのを待って大きな薪を追加していくだけだ。
「なるほど、そうやるのか」
 暖炉の前に片膝をついて火の様子を見ていると、隣で見学していたジョゼフが感心したように声を漏らした。
「自分で火を起こそうとは思わないんですか? こんなに寒いのによく平気ですね……」
「いいだろう別に。必要があるなら執事にやらせればいいだけさ」
 ジョゼフは取るに足らない冗談を聞いたように肩を竦めた。悠長なことだった。ハンターとサバイバーでは体感温度にかなりの差があるらしい。
 このひとはハンターなのだ。一般的な常識の物差では測ることは愚かなのかもしれない。
「……ともかく、これで火はつきました」
 暖炉の中で燃える火はまだ小さいままだが、イソップを取り巻く空気を確実に暖めていく。
 手袋を外して暖炉に手をかざす。血の巡りを忘れているかのようにかじかんでいた指の先が感覚を取り戻していく。
 ノックの音がした。暢気に手を温めていたイソップが緊張して入口のドアへと視線を注ぐが、部屋の主であるジョゼフは驚きもせずにドアへと近付き、訪問者が誰であるかも確認することなく、先程閉めた内鍵をあっさりと開けた。
 咄嗟に暖炉のそばのソファの陰に身を隠したイソップからは訪問者の姿は見えない。何を話しているのかと耳をそばだてる。突風に窓ガラスが揺れる音が邪魔だ。
 訪問者はジョゼフと何か言葉を交わすでもなく、ジョゼフもまた訪問者と相対しても挨拶すら口にしない。
「一つ多い」
 ジョゼフが口を開いた。何のことやら、イソップには想像もつかない。一体誰と話しているのか。
 ――本日はお客様がお見えのようでしたので。
 訪問者がジョゼフにそう告げたのがイソップの耳にも届いた。腰が低いが、至極事務的な抑揚の込められた聞き慣れない声だ。
 短いやり取りを交わした直後にドアは閉められ、イソップがソファから頭を出すのと同時に内鍵は再びジョゼフの手によって施錠された。
 食器の載ったトレイを手にしたジョゼフがイソップを見つけ、呆れたように顎でソファを指す。
「床に這いつくばっていないで、座りたまえ」
ジョゼフがソファの前のテーブルの上にトレイを置く。促されてイソップがソファに腰掛けると、
テーブルの上に先程受け取った食器の数々が広げられる。ティーポット、小さな蜂蜜の瓶、なぜかブランデー。そしてティーカップが二脚。どう見ても紅茶のセットだ。大きくなってきた暖炉の火に照らされ、ティーカップの精緻な模様が浮かび上がる。イソップは陶器に関しては門外漢だったが、一目で良い品であることがわかる。
 だが問題はティーセットの質ではなく、このティーセットを持ってきたのが誰かという点だった。
「誰だったんですか」
 単刀直入に尋ねる。主語の抜けた言葉だったと口にした後に気付くが、ジョゼフは向かいのソファに座り、ティーカップに紅茶を注ぎながら事もなげに言った。
「執事だよ。私がゲームから戻ると紅茶を持って来て貰うことになっている」
「なるほど……」
 どうやらハンターの館にはルームサービスがついているらしい。サバイバーの館とは滞留者の扱いが異なるか、もしくはサバイバーの館でも同様の世話をして貰えるのかもしれない。無事ここからサバイバーの館へ帰れたとしても、イソップには試してみるつもりはなかった。
 イソップが思考している間、ジョゼフは湯気の立ち上る紅茶の中にブランデーを注いだ。片方は適量だが、もう片方にはいささか多すぎるのではないかと思われる量を注ぐ。そして当たり前のように後者をイソップに差し出してくるのだ。
果たしてブランデーとは、そんなにどぼどぼと注ぐものだったろうか。
 おそらく身体を温めろというジョゼフなりの気遣いだろう。部屋はじわじわと暖まってきたとはいえ、イソップの身体はまだ芯まで温まったとは言い難い。今この時も、出来れば暖炉の前に貼り付いていたいくらいなのだ。
「執事がどうやって君がいることを知ったのかはわからないがね。芸者かな」
 ジョゼフは小さく息を吐いて、手の中のティーカップに視線を落とした。
表情を窺う限りではジョゼフが気を悪くした様子はないが、おそらく彼は芸者が執事に告げ口をしたのではないかと疑っている。
「あのひとではないと思います」
「ほう? 君が彼女の何を知っているというんだ? 執事は訊かれたら答えてしまう。知っていることなら何でもな。質問によっては、君がここにいることが他のハンターに露見する。困るのは誰だ?」
「あのひとについては、ジョゼフさんの方が良く知っているはずです。僕はただ……」
「ただ?」
「……あなたの方が、彼女より意地悪だと思って」
「なんだと?」
 ジョゼフの声が険を帯びる。
「サバイバーの僕を陥れるのなら、直接他のハンターに僕のことを吹聴して回ればいいだけだと思います」
 つい反論してしまった。芸者の肩を持つわけではなかったが、イソップ自身がハンター同士の諍いの種になるのはごめんだった。
「……君も他者を庇うことがあるんだな。君に免じて、執事の件は忘れよう」
 少しつまらなさそうにイソップを見つめる目には、明らかに不機嫌さが滲んでいた。その目も逸らされて、ジョゼフは背もたれに頬杖をついて明後日の方向を向いてしまった。
「……すみません」
 和やかな雰囲気が一転して気まずいものとなってしまった。余計な真似をすべきではなかったかもしれない。
イソップはこの館にとって異物なのだ。一刻も早くここから立ち去らなければならないと、今、よくわかった。
だが外は吹雪で、どこをどう行けば辿り着くかも不明なサバイバーの館を目指してさ迷い歩くことは出来ない。今はおとなしく、ジョゼフに保護されているより方法はないのだ。
室内が沈黙に支配される。ジョゼフはそっぽを向いたままだし、イソップは不機嫌な相手になんと声をかけたらいいかわからずに下を向くことしかできない。
 手にしたティーカップを見つめる。アルコールが多いか紅茶が多いかわからなくなった液体からは湯気と共にブランデーの強い芳香が漂っている。酒気を放つ紅茶と向かい合っていると、ジョゼフが蜂蜜の瓶を押して寄越した。
「飲まないのか? 熱いならこれを入れるといい」
 いつの間にかジョゼフはイソップを観察していたようだった。下ばかり見ていたイソップは、まるで気が付くことが出来なかったが、ジョゼフはきっと、会話の糸口を探していたのだろう。
「いえ、大丈夫です。……いただきます」
生憎と、甘いものはそこまで好んではいない。首を振って蜂蜜はいらないと意思表示をした後、思い切って紅茶とも酒ともつかぬ熱い液体を口内に流し込む。
良い茶葉を使っているのだろう、ブランデーの香りに押されているものの、紅茶の香りもかき消されることなく存在を主張している。
 だが飲み干した直後、喉が焼けるような感覚が訪れる。熱々の紅茶だったことも手伝って、途方もなく熱い。
しかし喉元過ぎれば何とやらで、すぐにその熱は飲酒をした時と同じ感覚に落ち着いた。
もう一口、と試しに飲んでみるが、早々に慣れたのか、先程より飲み下した時の感覚は幾分穏やかなものだった。ブランデーの紅茶割り、とでもいったところか。そう考えれば飲めない代物ではないが、全て飲み干す勇気はない。
 ジョゼフはイソップの顔を見て、大袈裟な、と肩を竦めた。口元にはかすかに笑みが浮かんでいるのが腹立たしい。
「笑ってますけど、ジョゼフさんも飲んでみたらいいんだ」
「どれ」
 身を乗り出してイソップの手からあっという間でカップを奪うと、止める間もなくジョゼフはイソップの唇が触れた部分から紅茶を飲んだ。
「ふむ。入れすぎだったか。失礼した。ハンターの身体は鈍感な部分があってね」
 返事も出来ずに奪われたティーカップに視線を注いでいると、ジョゼフは「ああ」とようやく思い当たったのか、カップの縁の当たりをしげしげと眺めた。
「今更だろう。先程キスをした仲じゃないか」
「あれは、あなたが脅すから」
 イソップのささやかな抵抗もジョゼフにはそよ風のように無力だった。彼は愉しそうに笑いながら立ち上がり、茶会の終わりを宣言する。
「夜も更けてきた。そろそろ寝よう。君はソファを使うといい。ベッドは一つしかないから」
 元よりそのつもりだったので、イソップとしては不満はない。
「君は私を意地悪と評したが、弁明しておくと、これは別に君に意地悪をしているわけじゃない。汚れた服で私のベッドに上がらせられないという話だよ」
 ジョゼフは自ら招き入れたホストとして、イソップを椅子で寝かせることに抵抗がないわけではないようだった。
 だがイソップとしては、暖かい暖炉の側のソファの方が快適に過ごせそうだという目論見がある。好んで男二人で狭苦しい思いをする必要もない。
「僕はどこでも構いませんから」
「……そうか」
 名残惜しそうな素振りを見せながら、ジョゼフはソファから離れ、部屋の奥へと向かった。奥には天蓋付きの大きなベッドが横たわっている。だが、そこへたどり着く前に、ふと思いついたようにジョゼフが声を上げた。
「服を脱ぐのならベッドを使わせてやってもいい」
「遠慮しておきます、僕はソファで充分です」
「つまらないな」
 思わず早口になりながら拒絶すると、ジョゼフはとぼけた様子で肩を竦めた。だから、なぜ少し残念そうにするのか。
 暖炉の薪が崩れる音がした。立ち上がり、薪を追加する。まだ最初の薪は原形を留めていたが、夜が明ける前に薪が全て燃えて火が消えてしまったら、イソップは凍死してしまうだろう。
「そうだ。バスルームはそこの扉だよ、カール」
 名を呼ばれ、ジョゼフの言う扉を確認しようと立ち上がって部屋の中を見回す。イソップは部屋の奥に一枚のドアと、ベッドの傍らで服を脱いでいるジョゼフを見つけた。
 コートもベストも脱ぎ、既にシャツ一枚の姿になっている。裾が長いおかげで下半身が全て露わになることは避けられているが、それでも長い脚のほとんどがイソップからは丸見えだった。
「どうした?」
「いえ」
 ジョゼフはイソップが見ていたとしてもお構いなしのようだった。
視界を遮る調度品くらいあってしかるべき内装なのに、と咄嗟に巡らせた視線が中途半端な角度で壁際に追いやられている衝立を発見した。隠す為の調度品があるのだから、使うべきではないのか。
「ジョゼフさん、少しは隠した方がいいんじゃ」
「なに、減るものでもあるまい」
 そういう問題ではない。
「私はね、慣れているんだよ。他人に肌を見られることにはね」
 するりとジョゼフのシャツが床に落とされる。
 これ以上はさすがに失礼だろうと、目を伏せてソファの上に身を横たえると、クローゼットを開け閉めする音がやけに大きく響いた。
「私の家には使用人がいてね……もう随分と昔の、子供の頃の話だが。彼らは着替えも入浴も一人ではさせてくれなかった。自力でボタンをとめようとして、最後まで行ったと思ったら一つずつずれていたことがある。可愛いだろう? ……言っておくが、子供の頃の話だぞ」
 いちいち釘を刺さなくてもわかっている。プライドの高いジョゼフらしいさと、幼少期の差が少し可笑しかった。
 衣擦れの音がしなくなると、かすかに木が軋む音がした。ジョゼフもベッドへ入ったらしい。
「君のことを話してくれないか」
「僕?」
「私ばかりが話すのはつまらない。今度は君の番だ」
「僕のことなんて聞いてどうするんですか」
「言ったろう。君に興味がある」
「そう言われても……」
「そうだな……では、テーマは子供時代でどうだ」
「子供時代……」
 温かい手のひら。笑顔。イソップを呼ぶ優しい声。棺の中の母。黄色い薔薇の花園。眠る彼女によく似合うだろう。ごつごつとした手のひら。君は今日からイソップ・カールだ。
「人に聞かせて、楽しいものではないです。僕は物心ついた時から母と二人でした。母が亡くなり、僕は納棺師の男性に引き取られました。養父となった彼から僕は、納棺師としての技術を授かったんです」
「イソップ」
「今ではその養父ももう亡くなっていますが……」
「もういい、わかった。……君の出自もなかなか複雑ということは、よくわかった。……もう眠ろう。今度は子供時代の楽しい思い出について考えて来てくれ……」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
 それっきり、ジョゼフは静かになった。イソップは仰向けになり、暫くは天井に彫られた幾何学模様を目で追っていたが、やがて目を閉じた。
 子供時代の楽しい思い出。どんなことがあっただろうかと子供時代に思いを馳せているうちに眠気を覚える。
 ハンターの館で眠りにつくとは実に奇妙なことだ。今朝の自分に話したとしても、絶対に信じない。案外、朝起きてみれば、いつものように自分のベッドの上にいるかもしれない。
「イソップ。こちらへ来るか?」
 ジョゼフの声がした気がした。先程イソップに向かってソファで眠るように言ったのはジョゼフのはずなのに、おかしなことを聞くものだ。
もしかしたらイソップはもう半分眠っていて、寝ぼけてそう聞こえただけかもしれない。
 いいえ、と答えたつもりだったが、うまく声になったか怪しい。
 夢に対して返事をしているかもしれない、と頭の隅では思いながらも、眠気には抗えない。
 暖炉の熱に意識がどろどろと溶けていくように、イソップはめまぐるしい感情の動きに蓋をして、いつしか眠りに落ちた。
[newpage] 身体が軋む。寝返りを打てば何かにぶつかり、寝ている場所が自室のベッドではないことを思い出す。
イソップの頭と身体は何かにすっぽりと覆われていた。手触りからすると毛布の類ではないが、布であることは間違いない。手繰り寄せて顔を出すと、それはどうやらコートらしいことがわかった。
部屋の中が思っていたよりも明るくて、眩しさに目を細める。
ソファの上で身を起こす。狭い所で寝ていたせいか、関節はあまりくつろげなかったと訴えているが、一度も目覚めることはなかった。
 足元に滑り落ちたコートを拾い上げる。広げてみたそれは鮮やかな青い色をしていて、正面に蔦の模様があしらわれている。
 ジョゼフが何着も衣装を所持していることは知っているが、これは昨日のゲームで着ていたもので間違いない。その割に、このコートからは何の匂いもしないのだから至極不思議だ。
「こら」
 イソップの頭上に、ふと影が差した。
「私の服を落とすんじゃない」
 コートの持ち主がソファの後ろからイソップを覗き込み、イソップの手から衣服を取り戻した。
「お、おはようございます、ジョゼフさん……」
「おはよう。顔を洗ってきたまえ」
 ジョゼフは既に身支度を済ませたらしい。いつもの服装に、コートだけが足りない。
 昨夜教えられた通りにバスルームへと向かう道すがら、昨夜は死角になっていて気が付かなかった位置に小さなテーブルと椅子を発見する。
 イソップが目を引かれたのは猫足の家具ではなく、その上に行儀よく並べられた朝食だった。
「空腹だろうと思って用意させた」
 振り向けば、ジョゼフが得意げに笑っている。どうだ気が利くだろうと書いてある顔を見てしまった以上、朝は食べないなどとは口が裂けても言えなかった。
「……ありがとうございます……」
 あのジョゼフが、イソップのことを気遣って手配してくれたのだ。一応、礼は言っておくべきだろう。
 逃げるようにバスルームのドアを潜ると、中は想像より広かった。イソップからしてみればゆったりとした大きさのバスタブだけでなく、トイレと洗面台が一部屋に余裕たっぷりに置いてある。
何かにつけてサバイバーの館と比べてしまうが、ジョゼフが注文をつけて広い部屋を占拠しているという可能性もイソップの中で浮上しつつある。
言われた通りに顔を洗い終え、ふと目に入ったものがある。バスタブの傍らに置かれた石鹸だ。
 やれ身体を洗う石鹸は三種類あるだとか、やれ髪の艶を出す油はこれでないとなどと言い出しそうだと勝手な想像をしていたが、置いてあるのは何の変哲もない石鹸が一つきりだ。
最近新しいものをおろしたばかりなのか、角が丸くなってはいるがまだ原形を留めている。
 どんな香りがするのかと少し興味がわいて、石鹸の載った皿を手に取る。石鹸の匂いであるということ以外は何の匂いもしなかった。
 バスルームから出ると、先にテーブルについていたジョゼフが優雅にティーカップを傾けているところだった。窓から差し込む光を背に受けて、名画さながらの一場面だ。
「座りたまえ」
 そう促されたのはジョゼフの対面で、イソップが座ると紅茶を注いでくれた。それを合図に、朝食が始まる。
誰かとこうして食事を共にしたのはいつぶりだろう。久しぶりの誰かとの食事の相手がハンターだというのは、なんとも奇妙な体験だ。
 そもそも、ハンターの私室に呼ばれ、一対一で向かい合って食事をするというのもなかなかないのではないか。人懐っこい幸運児などは、よくハンターの館に遊びに行った話を誰かに語っているところをよく見るが、特別誰かと親しい関係になったりはしているのだろうか。
そんなことを考えながら紅茶を口へと運ぶ。今回は純粋に香り高い、おいしい紅茶だった。
 薄く切ったトーストは冷めていたが、皿に盛られた料理にはまだ少し温もりが残っていた。紅茶は保温されていたのか、温かいのがありがたい。
「よく眠れたか?」
「はい。あ、コート、ありがとうございました」
 ジョゼフはなんてことはないとひらひらと手を振った。
「でも、少し意外なことがありました」
「ほう?」
「ジョゼフさんは匂いがしないんだなと思って」
 フォークを持ったジョゼフの動きが止まる。どうしたことかと表情を窺えば、驚くべきことに、顔がみるみる赤く染まっていくのを目撃した。
 イソップの発言のどこに頬を染めるような要素があったのかはわからない。もしかして、ジョゼフは恥ずかしがっているのだろうか。
「すみません、僕また変なことを……」
 謝罪すると、ジョゼフはフォークをそっと置き、長い指で表情を隠した。
「君もそういうことをするんだな……」
 イソップの基準では裸を見られることの方が余程羞恥を覚えることなのだが。
 常に優雅で貴族然としているジョゼフの赤面よりも珍しいものなど、果たしてあるだろうか。パーティーでは誰よりもすました顔で足を組んで座っているような男だ。
 ふと、ジョゼフをからかってやりたい気持ちがイソップの中に芽生える。
「かわいいですよ、ジョゼフさん」
「からかうな。いいから、さっさと食べてしまえ」
 憮然とした表情で、しかし顔を赤くしたまま、ジョゼフは席を立つ。そのままバスルームへと消えて行った。照れ隠しに逃げてしまうとは、ジョゼフのくせに少しかわいいではないか。
 残されたイソップはとりあえず目の前の食事を片付けることにした。つい視線はバスルームへと吸い寄せられる。あの中へジョゼフは今、どんな顔をしているのだろうか。
 イソップが皿の上を空にする頃、ようやくバスルームのドアが開いた。
「そろそろ帰った方がいいだろう」
 現れたジョゼフは先程とは打って変わって凛々しい表情をしていた。
 時間をかけて冷静さを取り戻したと考えると可笑しかったが、態度には出さないよう、イソップは顔の筋肉を緊張させた。
 支度をするように促されたが、持ち物など化粧箱一つきりだ。部屋のドアの前で待機していた。
 一歩部屋の外に出ると、あまりの温度差に身震いした。寒い、物凄く。朝を迎えたせいか、昨夜よりも冷え込みがきつくなっている。
「大丈夫か?」
「っ平気です」
 足早に前を行くジョゼフの後ろを小走りでついていく。
 館の中は物音ひとつしない。ひょっとして誰もいないのではにかと思われる程に、何の気配もしない。聞こえるのはジョゼフとイソップの足音ばかりで、館から出るまでは何の問題も起きなかった。
 外は晴れていた。サバイバーの館と同じであるなら、石畳が敷かれていると思しき庭には満遍なく雪が積もっていた。
「美智子、見て」
「ふふ、子供みたいやわあ、マリーさん」
 楽し気な声が二つ、聞こえた。それよりも先にジョゼフが立ち止まり、イソップは彼の背中に追突した。
 何事かとジョゼフの身体の影から出ると、芸者と血の女王が立っていた。
「こんなに寒いのに雪遊びか」
「おはよう。いいでしょう、たまには童心に帰るのも」
「おはようございます、ジョゼフさん……イソップさん」
「あら? そこにいるのはサバイバー? どうしてこんな所にいるのかしら」
 ジョゼフは背中にイソップを隠した。マリーが回り込んでイソップを観察しようとするが、ジョゼフが身体の向きを変えて阻止する。
「もう帰るところだ」
「隠さないでちょうだい。ねえあなた、もう少しゆっくりしていらっしゃいな」
「彼はもう帰らなくてはいけない。わかるだろう」
 ジョゼフの背からこっそりと顔を出して、じっと芸者の顔を見つめる。視線に気が付いた芸者もイソップを見つめ返してくるが、その表情に悪意は浮かんでいない。何か用でもあるのかと、不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「行こう」
 不意にジョゼフに手を引かれ、引きずられるようにして歩き出す。
「お気をつけて」
「またいらしてね」
 仲よく並んでイソップを見送るハンターに目礼をする。庭を通過し、森の中へと入る。
 暫く進んだところで、ようやくジョゼフはイソップを解放した。
 ジョゼフが森の中を指さす。雪が積もって分かりづらくなってはいるが、そこには道があった。
「この道を真っ直ぐ行きなさい。寄り道さえしなければサバイバーの館に着くだろう」
「ありがとうございました、色々と」
 振り返って、木々の隙間からハンターの館を見る。恐ろしいハンターがあの中にいるとは、外観からは想像がつかない。
「……懲りていないなら、また来るといい」
 これには驚いた。楽しく和やかな会話とは程遠い雰囲気を作り出してばかりいたイソップを、また呼びたいだなどと。
「ジョゼフさんこそ、懲りてないんですか」
 ジョゼフは笑い飛ばすこともせず、何も言わない。
 ジョゼフが一歩近づく。イソップの両肩に手が置かれ、ジョゼフの顔が迫る。
 キスをされる。咄嗟に目を瞑るが、その時はやってこない。おそるおそる目を開くと、戸惑ったジョゼフの顔が目に入った。
 ジョゼフはイソップの額に素早くキスをした。
「え、あ、ジョゼフさんっ?」
「いやなに、して欲しそうな顔をしていたものだから、君が」
 涼しげな顔でけろりと言わないで欲しい。というか、さりげなくイソップのせいにされているが、それらしい雰囲気にしたのはジョゼフの方ではないか。
 などという文句を堂々と言うことが出来れば、イソップはもう少しうまく立ち回れたであろう。
 そうできないイソップは、ジョゼフの前から立ち去るという選択をした。
「僕、もう行きますから」
 一刻も早くジョゼフから顔を背けたい、見ないで欲しい、その一心で早口で別れを告げ、返事も聞かずにイソップは踵を返す。ジョゼフの方を振り向くことなど、もちろん出来やしない。
 別れ際のキスなど、まるで恋人のようではないか。イソップは混乱したまま、逃げるようにハンターの館を後にするのだった。