伯爵のお気に入り(上)(未完)

 水曜日。イソップは今日も花を手にジョゼフの元へと向かう。
 今日の花はあの人の身に付けている赤いリボンに倣って、赤いガーベラにした。
 いつから始めた習慣だったかは定かではないが、知人の庭師が話のきっかけにと花を持たせてくれたのが始まりだったことはよく覚えている。
 思えば、おおよそ週に一度の頻度で伯爵の屋敷へ訪れるようになってからもう随分と経つ。
 
   *
 
 始まりは一通の手紙だった。
 イソップの元に、伯爵が主催するパーティーへの招待状が届いたのだ。ゲーム内でしか面識はなかったが、呼ばれた理由は明確だ。出席者の少ないパーティーとは寂しいものだ。イソップだろうがなんだろうが、頭数の足しになればという魂胆だろう。
 ざわめきを無視して、イソップは会場の一角に据えられたピアノに目を付けた。
 誰かと話しているよりも、ピアノを弾いている方がずっと楽だ。選曲は、パーティーの邪魔をしない、穏やかだが気の抜けすぎない、程よくゆったりとしたワルツだ。
 三拍子のリズムに合わせてちらほらと踊る者がいるのを視界に端にとらえながら、イソップは演奏を続ける。イソップの演奏で楽しんでくれるのならやぶさかではないのだ。イソップ自身がそこへ混ざることは、多分今後もないけれど。
「来てくれてありがとう。来て貰えないと思っていたからとても嬉しいよ」
 ワルツが終わり、踊っていた人々がグラスを取りにめいめい散っていく頃、イソップに話しかけたのは他でもない伯爵自身だった。
「次は何を弾きましょうか」
「君もパーティーを楽しんだらいいのに」
「僕はここにいる方が性に合うので……これが僕なりの楽しみ方なんです」
「……では、君が一番好きな曲を」
 促されてピアノを弾いている間、なぜか伯爵はずっとイソップの傍を離れようとはしなかった。
 イソップになどかまけていないで、他のゲストと談笑でもしていればいいのに。さもなくば、彼を遠巻きに眺める女性と踊ってやればいいではないか。
 他人が得意でないイソップは演奏中に誰かがそばに立っていると落ち着かない。けれど伯爵は立ち去る気配など微塵も見せずに佇んでいる。
 この曲が終わったら素早く退散しよう。そう心に決め、イソップは伯爵を意識の外に追い出し、目の前の白と黒の鍵盤とだけ向き合うことにした。
「とてもいい演奏だった」
「……ありがとうございます」
 演奏を終えて立ち上がったところに伯爵から声が掛かる。僕はこれで、と言い置いて、すぐさま逃げ出すつもりでいたイソップは出鼻を挫かれてしまい、その場に留まらざるを得なくなってしまう。
「時に、君はどこの琴師かな?」
「僕は……ただの琴師です」
 そうか、と独り言のように伯爵は呟く。
「退屈は人を殺す。君のピアノがあれば死なずに済むだろうに」
 言葉の意図を図りかねたイソップには何と返事をするのが正解なのかがわからなかった。答えようがないので伯爵の顔を黙って見つめていると、伯爵はかすかに首を傾げたが、不快になった様子もなく、今度はイソップにも理解出来るよう、はっきりと言った。
「君さえよければ、たまにピアノを聞かせてはくれないか?」
 
   *
 
 それは権力で無理矢理従わせるわけでもなく、強制力のないただのお願いだった。どうして彼の願いを聞き入れ、今では足繁く屋敷へと通う程になったのか、イソップ自身にも明確な理由を説明出来ない。
 ところで、一緒にピアノを弾くことになると、当然ながら椅子に二人で腰掛けることになる。いつもより近い距離にジョゼフがいることを意識してしまって、指がいつものように動かないこともしばしばあった。
 きっとそうなる度にジョゼフは笑っていたのだろうけれど、けして何も言わないのだ。そのことに気付いてからイソップは更に緊張を強いられるようになるが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
 だからこうして、今日も今日とていそいそと伯爵の屋敷に向かっているのだ。
 もしかしたら、単にイソップはジョゼフのことを気に入ったのかも知れなかった。
 先日などは、私だけの琴師になってほしいと、身に余る言葉をついに頂戴してしまった。もちろん、断る理由などイソップにはない。
 僕でよければ、と返した時の、いつもすましたジョゼフの顔に浮かんだ抑えきれない喜び。思い出すだけで地に足がついていないような心持ちになる。
 ジョゼフもまたイソップを気に入っているのだと自惚れているうちに、森の道はいつのまにか下草が消え、点々と平らな石が埋められた道へと変化していた。これが現れ始めると、ジョゼフの屋敷はもうすぐそこだ。
 まばらだった石は、やがて舗装された石畳の道へと変わる。鉄と石の柵は一応は外界との隔りを示して招かれざる者の侵入を拒んでいるが、イソップの知る限りではいつ来ても門は無防備に開いていた。
 門の向こうにあるのは、城と呼ぶには小さな屋敷だ。外観は麗しい姿の主人と反するように古びており、壁は色褪せ、部分的に緑の蔦が絡まっていたが、かえってそれが屋敷の姿を趣深いものにしているとイソップは感じていた。
 庭も、貴族の邸宅にありがちな途方もない広さ、といったこともなく、植え込みと小さな噴水を通り過ぎてしまえばあっという間に正面玄関だ。
 呼び鈴を鳴らせばすぐに執事かメイドがドアを開けてくれるはずだった。しかしイソップが訪問を知らせてもなかなか扉が開かず、中で何かを話している声がしているな、と思っていると不意にドアが開いた。
「待ってたよ、イソップ」
「こんにちは。ジョゼフさんが出るとは思いませんでした」
「たまにはいいだろう?」
「そうですね」
 他愛のないやりとりを交わし、いつものように伯爵の後に続いてホールへと向かう。
 一週間ぶりに訪れた伯爵の屋敷のホールは何も変わった点はなく、イソップが伯爵に弾いて聞かせるためのグランドピアノもいつもと同じ場所でイソップを待っていた。
「今日はガーベラにしてみました」
「ありがとう」
 伯爵はいつもイソップから花を受け取ると、手ずから繊細なガラスの一輪挿しへと移し替える。そして、ホールに隣接したサンルームのテーブルの上に飾るのだ。
 午後の光を受けながら花の角度を変える伯爵の姿は、ずっと見ていたくなるほど麗しい。
 イソップが伯爵に見惚れていると、不意に呼び鈴の音がした。
「誰だろうね。今日はもう来客の予定はないはずだが」
「僕が出ます」
 先程通って来たばかりの廊下を小走りで行く。道に迷うことなどありえない。この屋敷にもすっかり慣れてしまったのは、数えられない程に伯爵の元へと通いつめてきた証だ。とはいえ、イソップが知っているのは玄関とホールのある一階だけなのだが。
「お待たせしました」
 屋敷にいる執事の真似をして、口上と共に大きな重いドアを開く。そこには一人の執事の青年が立っていた。
 青年はこの屋敷の執事かと思われたが、執事がこの正面の玄関を使うことは通常ない。それに何より、目の前の彼は化粧をした白い顔をしていたが、その顔はイソップが鏡を覗いた時に目にする顔にそっくりだった。
「伯爵のお住まいはこちらですか」
 何かの勘違いであるとか、間違いであるという思考に辿り着くよりも先に、聞き覚えのある声がとどめを刺す。
「伯爵のお住まいはこちらで合っていますか」
 彼はもう一度同じ趣旨の質問を口にした。
「どうして……」
「ここへ来るようにと、指示があったから」
「誰から」
「荘園の主」
 平然と執事のイソップは言ってのけるが、荘園の主の導きだとしても、だからといってなぜ伯爵の屋敷になど寄越したのか。
 しかし目の前の執事に苦情を申し立てたところで、この屋敷はイソップのものではないので意味がない。
「どうした」
「ジョゼフさん」
 イソップの頭の上からひょいと顔を覗かせた伯爵が、執事のイソップを見て動きを止めた。
「君は……」
 ジョゼフは何か言いかけたが、最後まで言葉にすることはなかった。執事のイソップを見つめたまま動きを止めている。
 なぜそんなにも執事のイソップを見つめるのか理解できない。
「荘園の主から言われて来ました。今日からお世話になります」
 執事はジョゼフの様子を気に留めることもなく、ついでにイソップも無視してジョゼフに頭を下げる。ジョゼフは呪縛から解き放たれたが、困った顔をした。
「……そういった話は聞いていない。何かの間違いではないかね」
「僕はただ、伯爵の所へ行くようにと言われただけです。それ以外には何も……」
「では、やはり人違いだろう。伯爵の私など、それこそどこにでもいる」
「そう言われても、僕はどこへ行けばいいのか……」
 執事はそれきり口を閉ざした。
 ジョゼフには彼を置いてやる理由もなく、しかし執事を追い返したところで彼には行くあてもない。荘園の主に今一度確認するのが確実だが、今すぐどうにかなるわけもなく、雨風を凌げる仮住まいが必要になるだろう。
 どうなることかと成り行きを見守っていると、仕方がない、とジョゼフが口を手で覆ったまま呟いた。
「行き先が決まるまではここにいるといい」
 その言葉に信じられない思いでジョゼフの顔を見る。何もここへ置かなくても、一時的にであってもイソップと同じようにサバイバーの館に滞在すればいいではないか。
 不満の原因は執事をどこへやるかではなく、琴師の自分は一人で森の中を帰らなくてはならないというのに、なぜ執事の自分はジョゼフの元に留まることが許されるのか、納得がいかないのはその点だ。
「ただし、ここに住むのなら仕事をしてもらう。いいね?」
「はい、何なりと」
 イソップの思惑を置き去りにして、どんどん話が進んでいく。ジョゼフは断るどころか、執事を受け入れるなどととんでもないことを言い出した。
 こうしてあっという間に執事のイソップは伯爵ジョゼフの傍らで暮らすことが決まってしまった。
 今後、絶対に揉める。イソップはそんな確信を得て胸の内で燃え始めた嫉妬心を今は無理やり押し込めて、なかったことにした。
[newpage]「上達したな」
「ありがとうございます」
「さすがは私が見込んだだけはある」
 イソップはピアノの音に紛れさせて、そっと嘆息した。ピアノに向かい合っていても、視界の端で捉えた姿が気になって仕方がなく、まるで集中できない。
 何より気に入らないのは、ジョゼフはイソップがいてもお構いなしに執事にあれこれと話しかけていることだ。
 まだ荘園に慣れない執事の為に何くれとなく気を遣っている。それは理解できる。しかしイソップの前にわざわざ執事を呼び出すとは、どういう意図があるのか。紅茶など、元から屋敷にいた執事に持って来させればいいではないか。
 対する執事は淡々と仕事をこなし、ジョゼフの態度にもまるで喜ぶ様子を見せない。イソップであれば舞い上がってしまいそうなものだが、執事の自分と琴師の自分でこうも差が出るものだろうか。
「イソップも。せっかく執事の君が淹れたのだから、今日こそ飲むだろう?」
「いえ……結構です」
 こうしてお茶の誘いを断るのはもう何度目になるだろうか。
 ジョゼフの意味深な言葉には理由がある。それはイソップに原因があることだとわかっていても、今のイソップには批難されたように聞こえてしまい、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 気が付けばジョゼフと執事が目を丸くしてイソップを見ていた。無意識にその場に立ち上がっていたらしく、突然立ち上がったイソップをジョゼフを執事が何事かと見つめているのだ。
「……少し、出てきます」
 イソップが退室した途端に聞こえてきた会話は耳を疑うものだった。
「誤解されますよ」
 呆れたような執事の声が聞こえてくる。
「君がなかなか靡いてくれないからだろう」
 対するジョゼフの声は拗ねたような響きを含んでいて、立ち聞きしているイソップはなぜジョゼフが拗ねているのか全く分からない。拗ねたいのはイソップの方だ。
「そんなことをしなくても、全てあなたの望み通りになると思いますが……」
 それ以上聞いていられずに、イソップは廊下の奥に向かって無理やり足を動かして進んでいく。
 イソップの中で一気に膨れ上がる感情は、怒りか妬みか、それとも悲しみなのか。それともいっぺんにたくさんの感情が噴出してしまって、判別がつかなくなっているのか。
 ずかずかとあてもなく彷徨ううちに屋敷の奥へと進んでいくイソップを咎める者はおらず、ついには突き当りの階段に辿り着いてしまった。手持無沙汰に腰掛けて見上げると、玄関に近い階段とは異なる質素な造りをしていた。主であるジョゼフは玄関に近い階段を使っているから、主に使用人が使うのだろう。執事のイソップもこの階段を使うのだろうか。
 それにしても、先程のジョゼフの態度はどういうことなのか。執事の方はといえば、ジョゼフの態度に困惑しているようだ。執事にその気がないのは幸いだ。ジョゼフが執事を気に入っていて、執事も満更ではないなどということになってしまったら、琴師のイソップは立つ瀬がない。
 立てた膝に腕を載せ、頭を預ける。目を閉じて、再び開けた時に全てなかったことになっていたらいい。それでも一つだけ変わっていてほしくないことがある。
 僕はあなたの琴師なのに。
 肩を掴まれ、身が縮むような思いがした。咄嗟に振り払って後退りで数段逃げてから相手がジョゼフだと知り、途端に緊張の糸が切れる。
「なんだ……ジョゼフさんじゃないですか」
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
 飛び跳ねんばかりに驚いたイソップを見て、ジョゼフの方がかえって驚いたようだった。
「どうしてジョゼフさんがここに?」
「君が遅いから探しに来たんだよ」
 まさかこんな所にいるとは思わなかった、とジョゼフは笑う。その目がふと、質素な階段を見上げた。
「二階には入ってはいけないよ。ちょっとした工事をしているから」
 言われてみれば、階上からはガタガタと大工仕事をしている物音がする。自分の考えで頭がいっぱいで、指摘されるまで気付かなかったが。
「危ないから戻ろう」
「……はい」
 ジョゼフはごく自然にイソップの肩を抱き寄せ、ホールへと導く。執事のことを気に入ったのかと思えば、琴師のイソップにも相変わらず優しい。例えそれが部外者のイソップを二階に入れない為のものだとしても、優しさには違いないのだ。
 イソップの肩を抱くジョゼフの手に、かすかに力が込められるのを感じた。
「気分がすぐれないなら泊まっていきなさい」
「え?」
 思いがけない誘いだったが、イソップはすぐに返事をすることが出来なかった。
 ジョゼフから泊まるように誘われたのは初めてだ。だが今は誘われるには最低のタイミングだ。これ以上ジョゼフと執事が仲良くしている現場を見るのは御免被りたかった。
「いえ、そこまででは……」
 気分が悪いといえば悪い。だがそれはジョゼフのせいなのだ。
 泊まっていくようにとジョゼフは再三勧めてきたが、仮病である以上一人で帰れる。ジョゼフと執事がいる場所から早く逃れたい一心で、イソップはジョゼフの誘いに頑なに首を縦に振らなかった。
 その後、森の中をどう歩いて帰ってきたのか記憶が定かではない。
 
   *
 
 そして次の水曜日、イソップは伯爵の屋敷には行かないことにした。
 毎週訪問するという約束などしていないのだから罪悪感を覚える必要もないのだが、行かないと決めたにも関わらず、その日は外に出る気も起きず、部屋に立てこもって日がな一日ピアノを弾いて暮らした。
 毎週水曜日にイソップが伯爵の元へと出かけているのは既に周知されていて、下手に外に出て誰かと遭遇すれば、なぜ今日は行かないのかと質問責めにされる。
 誰かにこの胸の内を吐露するなど、考えたくもない。無心でピアノでも弾いていればそのうち落ち着くのではないかと思ったが、ジョゼフに教えた曲、ジョゼフと一緒に弾いた曲を弾く度に、距離が近くて戸惑ったことや、手が触れ合って気まずい思いをしたことが思い出されてしまう。
 日が暮れて眠りにつき、朝が来てまたピアノに向かう。それの繰り返しが続けば続く程、あの曲もこの曲もジョゼフと過ごした思い出に染まっていて、頭の中がジョゼフ一色なことに我ながら呆れてしまう。
 もっと困ったことに、ジョゼフの屋敷に行かなければ行かないで、ジョゼフに会いたくてたまらなくなるのだ。
 しかし当のジョゼフはわからない。執事が傍にいるのだから、案外イソップなどいなくても楽しくやっているのかもしれない。
 そう考えてしまうとまた意地を張りたくなってしまう。意地を張るのをやめて会いに行きたい気持ちと、意地っ張りな自分が頭の中で取っ組み合いを繰り返しているようなものだ。
 すべてを放棄して午睡に身を任せようかとしていたところに、ノックの音がした。
「イソップさん? お手紙が届いてるなの。ジョゼフさんから」
 ドアの下の隙間からすっと差し入れられたのは一通の封筒だった。ジョゼフらしい優雅な筆跡で『サバイバーの館 琴師 イソップ・カール様』と宛名が書かれている。
 ジョゼフの元へ行かなかった文句でも書いてあるのだろうかと、その場で封を切って便箋に目を通す。
 全文に目を通して、イソップは宙を仰いだ。昨夜君の夢を見ただの、君がいなくて寂しいだの、来週も会えなかったら眠れなくなってしまうだのと、歯の浮くような文句がつらつらと、これでもかと、よくそんなにも思いつくものだと呆れるほどに盛り込まれていた。
 よもや宛先を間違えているのではないかとすら思えたが、手紙の冒頭にははっきりと『愛しのイソップへ』と書かれているのだから頭を抱えてしまう。
「ジョゼフさん……」
「ラブレターなの?」
「違います」
 ドアの向こうから聞こえた声につい答えてしまったが、エマはまだ廊下にいたらしい。
「次のお花はどんなのがいいかしら」
 エマの楽しそうな声が聞こえる。
 エマには世話になっているし、手紙を無視してずっと屋敷へ行かなければジョゼフは不眠症で倒れてしまうかもしれない。
 イソップはジョゼフからの手紙を大事にしまった。
[newpage] 更に一か月が過ぎた。水曜が訪れ、イソップは今日も花を一輪携えて伯爵の屋敷へと向かう。
 呼び鈴を鳴らすと、出迎えたのは執事だ。この執事が来てからというもの、イソップが屋敷を訪問する時は必ず彼が内側からドアを開けた。
「今はお客様が来ているから、応接間へどうぞ」
 この執事は相手が自分自身であろうがなかろうが、自らの役割に忠実であろうとしている。イレギュラーな事態にも冷静に対応しているではないか。執事にとってはこの屋敷に住むジョゼフはただの一時的な主人であり、執着している様子は見られなかった。
 一方琴師であるイソップは、果たして役割に忠実だろうか?
 時間がかかるかもしれない、と執事に出された紅茶にミルクをたっぷりと入れて口に含む。おいしい。執事の淹れた紅茶を飲むのは初めてだったが、ジョゼフが傍に置きたがるのもわかる気がした。
 執事が来てから一か月半が経っているにも拘わらず、執事は相変わらずこの屋敷にいる。おそらく、ジョゼフは執事の行き先について何も動いてはいない。
 そしてこの一か月で変わったことが一つある。あの手紙以来、ジョゼフは殊更イソップに甘かった。執事の目の前で手に触れたり、必要以上にくっついて一緒にピアノを弾きたがった。
 その度に離れるか距離を取るかをしているうちに何かを察したのか、ジョゼフの方から近づかなくなっていた。
 寂しさはあれど、これでいい、と自分を納得させるしかない。
 もし執事をこの先もあの屋敷に置くつもりなら、主人である伯爵が出入りしている琴師と距離が近い様子など、見ても気分がよくなるものではないだろう。たとえ執事がジョゼフに対して情を抱いていなかったとしても。
 やがて執事がイソップを呼びに現れた。
「僕も君を見習うことにした」
 唐突な宣言を受け、執事はまじまじとイソップの顔を見た。
「……見習う?」
「僕はただの琴師だから、それらしく振舞わないといけないって気付いた」
「それは……本気で言ってる?」
 イソップは頷く。執事はそれを見届けると、いいとも悪いとも意見を述べずにイソップを案内した。外していたマスクを手に取り、イソップはその後を追った。
 そういえば、執事には顔を見られていたことを思い出す。
 マスクがあると、他人との間に見えない壁が出来たようで、安心できた。顔の半分を覆うことで、他人の視線が和らぐような気がしたのだ。それを外すことは少なからず抵抗はある。なにせ、ジョゼフの前ですら一度も外したことはないのだ。
 お茶に誘われる度にジョゼフを落胆させていると、これまでの言動を思い返せば胸が痛くなるばかりだ。
「とにかく、外堀を埋めに埋めるのも大概になさい」
 サンルームに繋がったホールに入ると、威厳ある女性の声が響いた。
 ホールには何者の姿はなく、声の主はサンルームにいるようだ。ジョゼフもおそらくそこにいるのだろう。だとしたら、怒られているのはジョゼフということになる。ジョゼフともあろう者が、一体、誰に怒られているというのか。
 つかつかとサンルームから出てきたのは、驚くべきことにマリーだった。この二人が一緒にいる所を見るのは初めてだった。まさか親交があったとは。
 マリーの方もイソップに気付いたが、ちらりと視線を投げたきりで、颯爽と立ち去ってしまった。去り際に彼女の唇が「がんばって」と動いた気がしたが、イソップの思い過ごしと言えなくもない。
 マリーは一体何をしに来たのだろうか。ジョゼフの方を見れば驚く程憮然としていて、なんと声を掛けたらいいかわからない。
 執事はジョゼフの不機嫌な様子を気に留めることもなくさっと近付き、その耳に何かを語りかけた。するとジョゼフはなぜかイソップの方にちらりと視線を寄越す。
「下がっていい」
 至って短い命令に従い、執事はイソップを置いて立ち去る。
 残されたイソップは何とジョゼフに話しかければいいのか分からずにその場に立ち尽くすしかない。
 マリーと余程やりあったのか、いささか疲れた様子のジョゼフは気を取り直すように眉間を揉んで、イソップを手招きした。
「……イソップ。こちらへ」
 イソップに向かってジョゼフが手を差し出す。その手に花を預けるが、ジョゼフは花を活けようとはしない。
 テーブルの上のいつもの場所に、ジョゼフが花を活けているガラスの一輪挿しがあった。ただ普段と違うのは、その一輪挿しには既に花が活けられていたのだ。
「花はもう必要なさそうですね」
 イソップはジョゼフの手から花を取り上げ、自分の手で一輪挿しの隙間にそっと差し込んだ。花の色も形も大きさも異なる上に、一輪挿しに押し込められて窮屈な見た目になってしまった。
 役割を取られたと、妬む気持ちは不思議と起きなかった。イソップが執事のことを認めたから、彼の仕事の成果も認められるようになったのだろうか。
 その手をジョゼフが掴み、引き寄せる。
「今日は偶然だ。偶然あの子が花を用意しただけで、いつも花があるわけじゃない」
 腕の中で弁解を聞かされるが、ジョゼフに抱きすくめられているという状況のせいでうまく内容が頭に入ってこない。
「離してください、ジョゼフさん」
 抵抗を試みるが、離すものかとジョゼフの腕の締め付けが増すだけだった。
「最近、君は冷たい」
 耳朶をくすぐる声に、ぞくりと肌が粟立つ。
「私のことが嫌いになったのか?」
「違います」
 やっとジョゼフはイソップを解放した。だが両肩をしっかりと掴まれ、絶対に逃がさないという意思を感じた。
「では、私のことをどう思っている?」
「僕は……」
 こんな時に執事のことをなぜか思い出す。彼が執事であるように、自分は琴師である、ただそれだけ。
「僕は、ジョゼフさんの為にピアノが弾きたいだけで……」
 ジョゼフは何も言わない。真剣な顔をしてじっとイソップの顔を見つめるばかりで、イソップの背に汗が滲む。
「つまり……ジョゼフさんのそばにいたいんです」
 口にして腑に落ちる。琴師であろうがなかろうが、結局のところ、これがきっとイソップの願いなのだ。
「君は私の琴師だ。そんなことは願うまでもないだろう?」
「そうですね……」
「……もう一度聞こう。君は、私のことをどう思っている?」
 肩を掴むジョゼフの手に力がこもる。
「好きか、どうでもいいのか……それとも、私のことは嫌いか? 顔も見せたくないくらいに」
「そんなことは……」
 伯爵の指がマスクの紐にかかる。
「嫌だと思うのなら抵抗しろ。私のことが嫌いというのなら、それでもいい」
 切なげな声でそんなことを言われては、抵抗など出来るわけがないではないか。
 目をそらしたいが、顎を手で持ち上げられてはそうもいかない。逃げ場がなくなって、ぎゅっと目を瞑る。
 顔を覆う布がなくなってしまうと、急に心もとなくなってしまう。ジョゼフになら見せてもいいと思っていたとはいえ、まさかこんなに真剣な雰囲気で見せることになろうとは、予測出来ていたのならさっさと見せてしまっていたらよかった。
 おそるおそる目を開ける。艶やかに色づいた唇がささやく。
「やっと見せてくれた。かわいいよ」
 唇に短いキスが落とされた。そのことに気付いた途端、顔が燃えているのではと錯覚するほどに熱くなる。
 ジョゼフはたちまち機嫌をよくしたように笑って、イソップの唇に吸い付いてきた。
 ジョゼフの唇は柔らかく、冷たい。舌と舌が触れ合ったり、吸われたりと、めまぐるしさについていけない。
「おっと、大丈夫か?」
 膝が折ったイソップの身体をジョゼフが支える。そのまま暫くイソップはジョゼフに抱かれるままにされていたが、その間にもジョゼフが耳にわざと音を立ててキスをするものだから居た堪れない。
「おいで」
 手を引かれ、ジョゼフに導かれるままに歩いていく。階段を上り、三階まで連れて行かれる。以前、上の階へと行ってはいけないと言っていたのに。
 辿り着いたのはジョゼフの私室だ。書斎を通り抜け、次の間へと通される。
 真っ先に目を引く、天蓋付きの巨大なベッド。無視しようにも出来ない、ジョゼフが好んでつけている香水の香りがした。ジョゼフしか身に着けることの出来ない、特注の調合なのだと前に聞かされたことを思い出す。
 何が起こるか、ここまで来て分からない程イソップも子供ではない。
 ベッドに座るように促され、棒切れになってしまったかのようにぎくしゃくする膝をなんとか動かして腰掛ける。腰をぴたりとくっつけてジョゼフが隣に並ぶ。肩を抱き寄せられても何だか現実のような気がしない。自分の身体だというのに、どこか他人に起きている出来事にすら感じるのだ。