僕たちはまだ恋を知ってはいけない
風のない浜辺は静かだ。さざなみが規則的に打ち寄せては砂の色をささやかに染めているが、その音は至極控えめだ。
ちゃぷちゃぷと波が打ち寄せる音の他に聞こえるものといえば、前を行く先輩のカーヴェとアルハイゼンがそれぞれ立てている砂を踏む音くらいだ。
カーヴェの足下に目をやれば、二色の砂の境目を辿るようにして足跡が連なっている。
アルハイゼンはカーヴェの靴の跡に足裏を重ねるようにしてゆっくりと後をついて歩いていた。そうしないと、ゆったりとした足取りのカーヴェを追い越してしまうからだ。
天気は良好で、降り注ぐ日差しもそぞろ歩きにちょうどいい。しかし浜辺を連れ立って歩いているというのに、二人の間で言葉が交わされなくなってかれこれ一時間が経とうとしていた。
海へ行こう。ハルヴァタット学院に現れたカーヴェは一方的にそう告げてアルハイゼンの腕を掴み、引きずるようにして浜辺まで連れて来た。
カーヴェのこの奇行は初めてのことではない。
カーヴェはたまにアルハイゼンを海へ連れてくると、最初のうちは他愛もない話をしながら並んで浜辺を歩く。次第に一人で思案に耽っているかのようにカーヴェの返事の間隔は広くなっていき、途切れ途切れでまるで会話になっていない会話はアルハイゼンが口を閉ざすことで終了する。
そのくせアルハイゼンがついてこないとわかると、カーヴェは戻って捕まえにくるのだ。ちなみにこの場合は暫くの間腕を解放してもらえなくなることをアルハイゼンは経験として知っていた。
アルハイゼンはカーヴェの散歩に付き合わされている形になる。しかも散歩の終わりはカーヴェにしかわからない。しっかり後ろをついて歩かないと嫌がるあたりも、実にわがままだ。
けれど、感情表現が豊かで騒がしいこの先輩が静かに考えに耽っている様は珍しい。だからアルハイゼンはこの時間を嫌いにはなれなかった。
「うわっ!」
その先輩が、目の前で突然無様に転んだ。
何が起きたかをアルハイゼンが理解するより先に、カーヴェが波から逃げるように身を退いた。
近づいて見てみれば、波に乗って浜辺にまで来てしまったのだろう、一匹のクラゲがゆらゆらと波に揺られるがまま漂っていた。
波が浜に辿り着くたびにクラゲも一緒に砂に乗り上げる。が、波が引くと同時に海へと戻って行く。それの繰り返しだった。
「……クラゲに驚いた」
「波に近いところを歩いているからそうなるんだろ」
「だって靴が浸水するかしないか、スリルがあった方が楽しいじゃないか」
呆れた、とは口に出さずに、代わりに手を差し出した。カーヴェは素直にその手を取ろうとしたが、濡れて砂がまとわりついている自分の手に気づいて自力で立ち上がった。
服の濡れ具合を確認し、カーヴェは肩を落とした。制服の裾がかなり濡れている。布地が白い分、払っても落としきれない砂が余計に目立つ。
「最悪だ……」
「帰るか?」
絶対に首を縦に振るかと思いきや、カーヴェは否定の意思を示した。
「今日は寄り道をしていこう。君が入ったことがない場所へ連れて行くつもりだったんだ。……少し、服も乾かしたいし」
カーヴェと共に訪れたのは灯台だった。
カーヴェは入口の番人に妙論派の学生という身分を告げ、後輩の為の灯台見学と称して日暮れまで灯台へ上る許可を取り付けた。
「……嘘は言ってないぞ」
「俺は何も言ってない」
他愛もない話をしているほんの短い間に上層階へ向かう螺旋階段は終わる。
最上階には細い窓が設えられていて、ここから沖の海獣を観測しているらしかった。
カーヴェが窓を開けると暗い灯台の中に傾いた太陽の光が差し込んできて、眩しさにアルハイゼンは目を細めた。
「狭いな」
そう呟くと、カーヴェは窓に足をかけ、止める間もなく外へと身を乗り出した。
「カーヴェ!」
「こっちこっち」
アルハイゼンが窓から身を乗り出すと、横からカーヴェが顔を覗かせた。
「その窓は小さすぎるだろ? こっちに二人で座れる場所があるんだ、ほら」
アルハイゼンの心配をよそに、あっけらかんと差し伸べられる手を仕返しに渾身の力で握ってやった。痛いと言いながらもなぜかカーヴェは楽しそうだった。
カーヴェの言う座れる場所とは、灯台の外壁の出っ張りのことを指していた。地上からかなりの高さがあるが、カーヴェは怖がることもなくアルハイゼンを導いた。
何とか二人並んで腰を据えた頃には、もうかなり日が傾いていた。番人と約束したのは日暮れまでだ。
しかし隣のカーヴェが夕日を見つめたまま何も言わないので、アルハイゼンはかねてより胸の内にあった疑問をぶつけてみることにした。
「先輩はなぜいつも俺を海に連れてくるんだ?」
カーヴェはこちらを見てにやりと笑った。
「どうしてだと思う?」
「質問に質問で返すな。それは答える気がないと言っているのと同じだ」
「僕は自分で考えろと言いたいだけだよ」
突拍子もない他人の行動について考えてみろとはまた難題だ。あるいはアルハイゼンの想像力が足りず、カーヴェにしてみれば論理的といえる行動の理由が見抜けないだけなのか。
「見てみろアルハイゼン! 何かいるぞ!」
カーヴェがアルハイゼンの肩を掴んで揺さぶった。
「やめろ、落ちる」
「ほら、あそこ」
カーヴェが指差す先、遠くきらめく波の中に確かに生き物らしき姿が見えた。
「海獣かな」
横目で盗み見たカーヴェは海の彼方を見つめて目を輝かせていたが、アルハイゼンは夕日に染まるカーヴェの横顔から目が離せなかった。
「きれいだ」
感嘆の声を漏らすと、カーヴェはこちらを向いて目を細めた。赤い吊り目は近寄りがたいと毎年新入生から敬遠されているが、表情豊かに変化することをアルハイゼンはよく知っている。
「君はやっと僕の前で何かを美しいと言ってくれたな」
「……俺は君みたいに思ったこと全てをありのままに公開しないだけだ」
特に、目の前に相手がいるとなると尚更褒めづらいものだ。
「憎まれ口も立派になってきたな」
嬉しそうに笑っていたカーヴェが、ふと真面目な声で言った。
「……君とここへ来るのもこれで最後だな」
カーヴェの言葉になぜかどきりとした。
「論文を仕上げて、提出して、会議で承認されれば僕は卒業資格を得られる。もう忌々しいレポートに追われることもなくなるのは喜ぶべきことだな!」
「……論文を出して終わりじゃない。口頭試問があるだろう」
「思い出させるなよ、緊張するだろ……」
妙論派はおろか、他の学派においても名の知られたカーヴェですら卒業がかかった諸々に向き合うのは精神に負担がかかるらしかった。
それならば、いやそれなのに、なぜ彼はわざわざアルハイゼンを連れ出したのだろう。
誰かと何かをするのは、少なからず疲れるものだ。たとえば息抜きがしたいのならば一人で海へ来て、好きなだけ散歩をすればいいのに。
一人でもできることをあえて二人でやる理由とは、何か?
「先程の質問の答えは……君が俺と来たかったから?」
少しの間の後、カーヴェは微笑んだ。
「なんだ。わかってるじゃないか」
その笑顔を見て、アルハイゼンは突拍子もないことを告げようと決意した。
「先輩、キスをして欲しい」
「はぁ?」
カーヴェは今まで聞いたことのない声を出した。
「何を言ってるんだ君は! 駄目に決まってるだろ!」
案の定、カーヴェは駄目だ駄目だと繰り返すが、アルハイゼンは知っている。アルハイゼンがじっとカーヴェを見つめると、何もせずともカーヴェはアルハイゼンの要求――お願いをきいてくれることが多い。
困った顔をして
「目を閉じていろ」
言われた通りに目を閉じる。カーヴェの指が前髪をさらりと避ける。
露わになった額にカーヴェがわざとらしく音を立ててキスをした。
「ほら、これでいいだろ。先輩から後輩への祝福だ。僕がいなくなってもせいぜい勉学に励んでくれ! まあ君のことだ、言われなくてもそうすると思うがな!」
「……カーヴェ」
「おい君、僕は先輩だぞ」
促され、先輩、と付け足すとカーヴェはよしと頷いた。
そうやって先輩風を吹かせるところがずっと気に入らなかった。先輩と後輩という隔たりがあるのがいけない。名前すら呼ばせてもらえない関係に何の価値があるのか。
アルハイゼンがカーヴェと同輩だったのなら、こんな瑣末なことに煩わされていることもなかったのだろうか。
いつかこの人に自分を認めさせたい。
いつまでも弟のように扱われるのは心外だ。
「一つ決めていることがあるんだ」
ひたとカーヴェを見据える。
「……俺が卒業したら、君の、」
「さっきから何なんだ君はっ!」
カーヴェの手がアルハイゼンの口を覆う。何をする。非難の眼差しを向けると、カーヴェは目を泳がせながら語り出した。
「アルハイゼン、それ以上は駄目だ……僕はもう卒業して自由を手に入れるが君はまだ学生で、勉学に励まないといけない身で、僕とは立場が変わるんだぞ! 年頃だしそういうことに興味があるのは理解できるが、というか君にはこれから好きな人が出来るかもしれないのに、僕のような手近な人間で済まそうとするのは、」
カーヴェの言葉を最後まで聞いていたら息がもたない。アルハイゼンはカーヴェの手を無遠慮に引き剥がした。
「何の話をしているんだ? 俺は卒業したら先輩を名前で呼ぶことにすると言いたかっただけだ」
「あっ……そ、そうか、ならいいけど……いや待て、僕を名前で呼ぶって? 君が? 僕を?」
「うん」
カーヴェはばつが悪そうに裾についた砂を払うと、ようやく頷いた。
「君だったら、まあ……いいよ。特別だぞ」
特別。カーヴェにとっての特別は、アルハイゼンの特別と比べてどの程度のものだろうか。気になるが、今のアルハイゼンに知る術はない。
それきり語り合うこともなく、地平線に太陽が沈むのを静かに見送った。
その後、日暮れと共に窓から顔を出した門番に長めの説教を頂戴してから、アルハイゼンとカーヴェは並んで歩いた。
指先が触れ合ったのを契機にカーヴェの手を握ると、素早く振り解かれた。それでもなお強引に手を握る。
「どうかしてる」
カーヴェが呆れた声音で文句を言ったが、手を振り解くことはなかった。