パッショネイト・ダーリン

 玄関に鍵がかかっていることを確認して、カーヴェは安堵とも落胆ともつかない心持ちで溜息をついた。
 教令院時代の後輩から香炉を借りた。特殊な香炉らしく、特許を申請する前に使い心地を試して感想を聞かせて欲しいと言われたのだ。
 何でも香炉と共に渡された特殊な香と、有機物――例えば花や乾燥させた果物、茶葉などを一緒に焚けば、香りを引き出して楽しめるという代物らしい。
「ただこれ、人の毛髪や体液を使うと、使われた本人以外に性的興奮を促進しちゃうんですよねー……
 カーヴェが最も興味をそそられたのは、後輩が冗談混じりに言ったその一言だった。
 手のひらに乗るほどの香炉を、そっとリビングの真ん中のテーブルに置く。そしてアルハイゼンがよく座っているソファの座面に目を凝らした。
 するとやはり都合よく落ちているではないか、銀色の短い髪の毛が。
 玄関に鍵がかかっていたということはアルハイゼンは留守だ。
 まさか本人がいる時に試すわけにいくまい。だが一方で、アルハイゼンが在宅していれば、カーヴェはきっとこんなおかしな行動に出たりすることもなかったはずだとも思上。
 後輩から渡された特殊な香を鼻に近づけると、つんとする薬剤の臭いがした。けして良い香りではないが、こんなものに火をつけて大丈夫なのだろうか。
 自室で使って万が一臭いが取れなくなっては困るので、比較的換気のいいリビングで試してみることにする。
 不安を抱きつつ、香炉に香とアルハイゼンの髪の毛を教わった手順でセットし火をつける。香はすぐに細い煙を立ち上らせ始めた。
 カーヴェは香炉から絶え間なく上る儚い煙をじっと見つめる。鼻腔をくすぐるのは草原の空気のように清々しくも、どこかスメールローズを思わせるかすかな芳香だけだ。これは香の本来の香りだろうか。
 暫く触れられていない恋人の香りを感じたい。我ながら何と健気だろうか。しかし媚薬のような効果がある、というかむしろそちらに興味があるというのが実に邪で、ちょっと人には話せない。
 後輩は香炉の蓋を時計回りに百八十度回せば煙が出る為の穴が塞がり、そのまま放っておけば燃焼が止まると教えてくれた。それらしい効果を感じたらすぐに香を消せばいいだけだ。
 だがなかなかその時は訪れない。十分ほど経った頃だろうか、畏まって待っているのも馬鹿馬鹿しいと感じ、カーヴェはソファの上にうつ伏せに寝そべった。
 煙の行く先をぼんやりと眺めている間も、特に香りに変化は訪れなかった。
 カーヴェは重たい溜息をつく。後輩が冗談で言ったのでなければ、たった一本の髪の毛では効果がなかったようだ。
 身を起こし、煙を止めようと香炉に伸ばした手がびくりと震える。
 少し体勢を変えた時に股間がソファの座面に擦れた。ただそれだけの、平素であればなんでもないはずの刺激が何倍にもなって感じられる。
 気のせいと思いたかったが、おそるおそる目をやった股間は平常時とは言えない大きさに膨らんでいた。
「そんな……
 手を触れてみればカーヴェのそれはもはや何の疑いようもなく勃起していた。一体いつの間にこんなことになっていたのか、全く気付かなかった。
 香りに変化がなくとも、しっかりと香はその力を発揮していた。これ程の効果しかしこれ以上酷くなっては困る。蓋を水平に回転させると、即座に穴は塞がれ煙が止まった。
 残されたのは部屋の中に漂うかすかな香りだけ。既に室内に充満し始めていた香りから逃れることは難しく、一呼吸ごとに下半身の疼きが増しているようにすら感じられる。衣服越しに何度か撫でるだけでも刺激が強い。
 少しだけなら慰めていいだろうか、という思いがカーヴェの中に芽生える。
 一度達してしまえば楽になるはずだ。幸い今はアルハイゼンは留守だが、いつ帰ってくるかは予想できない。抜くのならさっさとやってしまうに限る。
……んっ」
 下着をずり下げて性器を露出させる。既に硬さを持っている性器がぶるんと勢いよく飛び出てきたのを見て、自分の身体でありながら意思とは全く関係なく興奮していることに違和感を覚える。
 それでも根本からくびれにかけてゆっくりと上下に数往復擦っただけですぐにその気になってしまうのは、最近アルハイゼンとすれ違いがちな生活のせいだと思いたい。
……っふ、んん……
 鼻にかかった声が漏れる。自慰行為は一定の強さの快感をもたらしているが、達するほどの刺激には至らない。
 自分の好みの強さで触っているからすぐに終わるものだとばかり思っていたのに、あまり長引くとアルハイゼンが帰って来てしまう。
 まさかとは思うが、アルハイゼンに抱かれすぎて後ろを刺激されないと達せない身体になってしまったのだろうか。
「アルハイゼン……
 彼のことを考えると、後ろがきゅんと切なくなる。
 少しだけ、少しだけだ。後ろを刺激すればこのもやもやとした劣情からすぐに解放されるはずだ。
 意を決してカーヴェが後ろに手を伸ばしかけたその時、玄関の扉が開かれた。
 帰宅したアルハイゼンは、下半身を露わにしたままのカーヴェの姿を見つめて三秒間動きを止めた後、後ろ手に玄関の扉をゆっくりと閉じて施錠した。
「えっと……アルハイゼン、これには事情があって……
「俺から言えるのは、カーヴェ、そういった行為はリビングですべきではない、ということだけだ」
 いたって冷静かつ的確な指摘に腹が立つ。根本的な問題として、アルハイゼンが最近カーヴェを構ってくれないことから来ているというのに。
「どうせ、僕のこと間抜けで淫乱だって思ってるんだろ!」
「まだ何も言ってない。これから言おうとしていたところだ」
「この……っ! 」
 恥ずかしさとやり場のない怒りを抱えながら立ち上がる。もちろん、ズボンをしっかりと引き上げることも忘れない。
 自室へ逃げ帰ろうとするカーヴェの腕をアルハイゼンが掴む。ぞくりと背筋が粟立つ感覚があったのは快感のせいだろうか。肌まで性感帯になってしまったというのなら、いよいよどうかしている。
「どこへ行くんだ?」
「自分の部屋だよ、決まってるだろ! こっちは君に構ってる余裕はないんだ、頼むから来ないでくれ!」
 アルハイゼンの手を振り払い、一目散に自室へ逃げ帰る。
 潜り込んだベッドの中で己の情けなさと向き合う間もなく、身体は疼きを訴えてくる。
 結局さっきはアルハイゼンの乱入で達することができなかった。ハプニングで萎えてくれればそれでよかったのだが、香の効果は予想を遥かに超えるものだった。
 昼日中にアルハイゼンに痴態と恥を晒し、思い通りにならない身体を持て余したカーヴェは、香を焚いたことを後悔していた。だがどんなに後悔しても時間が巻き戻ることはない。
 仕方なく、記憶を頼りにベッドサイドに手を伸ばすと、硬く冷たい手触りがあった。毛布の中に引き込んだそれは、どのくらい前だったか、アルハイゼンとの行為に及んだ際に使用した潤滑油だ。使うかも知れないと置きっぱなしになっていたそれを一人で使う羽目になるとは。つくづく悲しい。
 とにかく一度抜いてしまえば楽になるはずだ。それだけを考え、後孔に濡らした指をあてがう。
……んん……っ」
 押すようにゆっくりと指を沈めていくと、さしたる抵抗もなくそこは進入を許した。悩ましげな声が出てしまうのを堪えられない。
 想像するのはアルハイゼンの性器で入口を浅く擦られることだ。亀頭だけをカーヴェの中に沈めては出し、沈めては出しを繰り返し、なかなか奥まで入れてくれないもどかしさが好きだった。
 ねだればすぐくれることもあれば、焦らした挙句に奥まで貫かれることもあった。どちらも甲乙つけ難い快楽だ。
 後ろをいじりながら前にも刺激を与える。先走りで滑る先端に刺激を加えると、着実に絶頂に向かっていく感覚がした。
……アルハイゼン……っ!」
 恋人がこんなに苦しんでいるのに放っておくところがいけすかないが、どうしようもなく彼が好きだ。
――っ!」
 声にならない声と共にカーヴェは達した。
 自らの手のひらの中にどくどくと欲望が垂れ流されていく。出し終えてからベッドを汚さないよう手早く処理すると、一仕事を終えたような疲労感がどっとやってきた。
 これでひとまずは落ち着くはずだ。
 そう思った刹那、ぴくりと性器が反応した。
 おそくおそる視線を落とすと、既に半ば立ち上がっていた。
「なんで……
 自分の身体なのに言うことを聞かない。コントロールする方法すらわからない。
 じわじわと迫り上がってくるような火照りにさえ恐怖を覚え震えていると、部屋の扉を叩く音がした。
「カーヴェ、開けるぞ」
「ア、アルハイゼン!」
 返事を待たず、不躾に入室してきた彼が手にしているものを見てカーヴェはベッドの上で後ずさる。
「それ、こっちに近付けないでくれ!」
「なるほど、君がおかしくなったのはやはりこの香炉のせいか」
 アルハイゼンはカーヴェの机の上に例の香炉を置くと、蓋を外して中をあらためた。
 カーヴェは鼻を毛布で覆って警戒したが、その様子を見たアルハイゼンが「火は消えている」と告げたことで一応は警戒を解いた。
「君はこの香の効果を知っていて使ったのか?」
……そうだよ」
「毛髪が入っている。俺の髪の毛を使ったのか?」
「そうだよ!」
「なぜだ?」
「それは……
「言えないのか?」
 アルハイゼンはベッドへと歩み寄り、毛布にくるまるカーヴェに覆い被さるように押し倒した。
「カーヴェ、今更君と俺の間に隠すべきことなんてあると思うのか?」
 アルハイゼンの指がカーヴェの唇に触れる。さりさりと表面を撫でるだけで何もしてくれないのがもどかしい。
 だがそれだけで体内の熱が瞬く間に膨れ上がっていくのがわかる。
「教えてくれカーヴェ。君はなぜ俺の髪を使って、俺にはまるで効果のない香を焚いた? 教えてくれたら、俺は君の手伝いができるかもしれない」

「んっ……ん、アルハイゼン、もっと……
「がっつくな、俺は逃げたりしない」
「ごめん……我慢できなくて……
 カーヴェの鼻息の荒さに呆れられてしまっただろうか。呼吸と昂った心を落ち着かせようと顔を離すと、今度はアルハイゼンからキスをしてきて嬉しくなる。
 久しぶりのアルハイゼンの唇を堪能しながら、カーヴェはふわふわとした心地良さを味わっていた。
 ことの顛末を洗いざらい吐いてしまったカーヴェは、隠し事がなくなった解放感を味わっていた。
 てっきりこの上なく馬鹿にされるとばかり思っていたが、アルハイゼンは静かに「俺が必要か?」と質問したので、カーヴェは是と答えた。
 やはり一人で処理するよりも、相手がいた方が断然気持ち良くなれる。
 それはアルハイゼンも例外ではないようで、カーヴェの手で扱かれている性器は頻繁にびくびくと震えていた。
 アルハイゼンの性器を見た途端、後ろが物欲しそうに疼くのがわかった。しかし準備のできていない状態ではうまく入らない。
 もどかしい気分でアルハイゼンの性器を上下に擦って刺激すると、幸いなことにすぐにアルハイゼンもその気になってくれたようだ。
 既に先走りで濡れ始めた、反応の良い可愛らしい後輩の亀頭をたっぷりの唾液で湿らせて舐め回したら可愛い声が聞けるかもしれない。だが今のカーヴェは与えるよりも、早く快感を与えてもらうことで頭がいっぱいだ。
 アルハイゼンに向かって脚を大きく開き、ひくつく後孔を両手でくぱ、と広げて見せる。
「もう解れてるから……早くくれないか……?」
 こんな格好、今までしたことなんてない。けれど今は理性のどこかが壊れていて、恥ずかしさを感じなかった。
 アルハイゼンはまじまじとカーヴェの姿を観察し、言った。
「恥ずかしくないのか?」
「なっ……
 真顔で言われると理性があっという間に戻ってきて、途端にどうしようもない恥ずかしさに襲われる。
「恥ずかしいに決まってるだろ! でも、だって、我慢できないんだ……君のこと考えながら抜いたって、全然おさまらなくて……
 曝け出した股を急いで閉じ、ベッドの上に立てた両膝を抱える。
 恥ずかしさと情けなさで涙が滲むのを感じた。アルハイゼンとの会話にいちいち傷付くようなたちではなかったはずだが、なぜかこの時だけはカーヴェの心のどこかにぷすりと刺さった。
……泣くとは思わなかった」
 アルハイゼンはカーヴェを抱き寄せて膝の上に座らせる。濡れた頬に唇を押し当てられたかと思えば、耳元に熱い吐息がかかり、カーヴェは身を震わせる。
「泣くな」
「誰のせいだよ」
「泣くとは思わなかった」
……君がもし悪いと思ってるなら、態度で示したらどうなんだ」
「わかった。……カーヴェ、腰を上げろ」
……ん」
 腰を支えられて、ぴたりと入口にあてがわれた先端は先程よりも熱を持っていて、どきりとする。
「なんか君、さっきより固くなってないか?」
……誰のせいか、説明が必要か?」
 腰を支えていたアルハイゼンの力が緩む。先端が、つぷりと無遠慮に押し入ってきた。
「ぅあっ!」
 ゆっくりと腰を下ろしていくと、先に慣らしていたおかげか、ぬぷぬぷと抵抗なく中を押し広げていく。
 程なくしてアルハイゼンを最後まで中に収めきると、カーヴェは前後に腰を揺すって久しぶりの感触に酔いしれた。
「はあ、入った……うれしい……これ、欲しかったんだ……
 根元まで咥えられて中が喜んでいる。こうしてぎゅっと締め付ければ、アルハイゼンにも伝わるだろうか。
「動くぞ……
 腰を上げては落とし、腰を上げては落とす。最初はごくゆっくりとした動きだったが、徐々に速度を上げていくにつれ、肌のぶつかる音に混じって時折粘膜がくちゅりと擦れ合う音がした。
 カーヴェが腰を下ろすタイミングに合わせて、アルハイゼンが下から腰を突き上げる。ずん、と一気に奥まで貫かれ、快感が全身を駆け抜けていく。
 アルハイゼンの荒い吐息が耳をくすぐる。それが刺激になって、カーヴェはますますアルハイゼンを求めてしまう。
「あっ、いく――!」
「っく……
 敏感になっていた身体はあっという間に絶頂を迎える。
 ちかちかと意識が瞬く。全身を快楽が駆け巡り、カーヴェは思い切りアルハイゼンを抱き締めた。カーヴェの出したものがお互いの腹を汚したが、そんなことは気にならない。
 ほぼ同時に、カーヴェの腹の中にアルハイゼンが射精した感覚があった。彼は達するのが早い方ではなかったが、カーヴェの痴態にあてられたというのであれば悪い気はしない。全てを吐き出して欲しくて、アルハイゼンを咥えた後孔をぎゅっと締め付けた。
 アルハイゼンが愛しい人の腕の中で快感に飲まれ、身を任せてしまうことの心地よさは無類だ。
 呼吸が落ち着くまでの間、そのまま抱き合っていたが、残念ながらずっとそうしてもいられない。
「喉が渇いた」
「僕も」
 名残惜しく軽いキスを交わしてから、重い腰を持ち上げる。
 性器を引き抜く時の、ずるりという内臓まで持っていかれそうな感覚に慣れることはない。
 そしてそれは毎回のようにカーヴェに快感を与えるのだ。
「んっ」
「こら、締め付けるな」
 無意識に締め付けてしまい、引き抜かれる時にちゅぽっと音がした。
 徐々に戻ってきた理性がその音を恥を感じるや否や、カーヴェはベッドの上に倒れ伏し、身体を丸めて顔を隠した。
「恥ずかしい。消えてなくなりたい……
 アルハイゼンは幾度か慰めるようにカーヴェの背をさすり、静かに部屋を出て行った。
 すぐに戻ってきたその手にはコップが一つずつ握られていた。それをカーヴェに一つ手渡しながら、アルハイゼンは自分のコップを傾けた。
 コップの中身は水だった。一口飲むと、喉の渇きが加速したように思えた。一気に飲み干した時、アルハイゼンがぽつりと言った。
「髪の毛一本程度でこの有様なら、精液を垂らしたらどうなるだろうな」
「いやだ……!」
 アルハイゼンの視線がベッドの上に落ちたどちらのものともわからない残滓に注がれている。
「そんなことしたら嫌いになるからな!」
「冗談だ。これ以上激しく搾り取られたら、俺が先に腹上死してしまう」
「全然笑えない……! 抜いても楽にならないのがどれだけ苦しいかわかってない、だろ……
 言葉尻に勢いをなくしたのを不審がり、アルハイゼンが顔を覗き込んでくる。
「どうした?」
「ん……何でもない」
 アルハイゼンの目はカーヴェの嘘を見透かそうと、瞬き一つなく見つめてくる。
 そっとその視線から逃げて目を逸らすと、不意にアルハイゼンはカーヴェの硬くなった乳首を乱暴に摘んだ。
「ひゃっ」
「何でもないようには見えないが」
「僕が気を遣っているっていうのに、君ってやつは! こうなったら最後まで付き合って貰うからな」
 アルハイゼンは吐息だけで笑い、カーヴェに優しくキスをした。随分余裕があるようだ。アルハイゼンもカーヴェと同じようにぐずぐずになって、正体がわからなくなってしまえばいいのだ。
 そうしたらもっと理性をどこか遠くへ放り投げて、もっと気持ちよくなれるはずなのに。
 香炉を返す前に、アルハイゼンと自分の髪を同時に焚いてみようか。
 そんな大それたことを考えながら、カーヴェはアルハイゼンの唇に噛み付いた。