神様のいないほとり

 少し前に旅人がフォンテーヌへと発ったらしいと告げた時、カーヴェは手すりに頬杖をつき、アルハイゼンに訝し気な視線を向けた。
「それってサプライズのつもりか?」
 カーヴェは目の前に広がる巨大な瀑布の音に負けじと声を張り上げる。
 客船の甲板の上はスメールからの観光客や、フォンテーヌへ帰る者で賑やかだ。バイダ港を出発したのは数時間前のことで、間もなくフォンテーヌの玄関口となるロマリタイムハーバーへと接岸するとあって皆どこどなく浮足立っている。
「今日まで言う機会がなかっただけだ。君は出発直前まで忙しなくしていてなかなか顔を合せなかったからな」
「仕事を調整していたんだ、仕方ないだろ。君みたいに好き勝手に休むわけにはいかないんだ。それにしても彼も水臭いな。送別会くらい開いてあげたかったのに」
「彼のことだ、恐らくフォンテーヌでも。そのうち噂の一つも聞こえてくるだろう」
「そうだな」
 舫い綱で船が港に固定され、ぞろぞろと客たちは船を降りていく。最後に船を降りる時、余程浮かれているのか、カーヴェは階段の最後の二段を飛び降りた。
「まずはどこに行こうか。君のことだ、どうせフォンテーヌの観光名所はとっくに調べ上げたんだろう?」
「観光ガイド以上の情報は持っていない。だが、その中に限られた者にのみ可能な体験についての記述があった」
「何だいそれは」
「フォンテーヌでは神の目の持ち主は水中では水神の加護を受けられるというものだ。簡潔に言うと、俺たちは水中で呼吸が出来る」
「本当か?」
 この情報にカーヴェは興味を示した。
「水中の景色を潜水服なしで堪能できるってことじゃないか。きっと綺麗だぞ。試してみようじゃないか」
「君はフォンテーヌに来たことがあるだろう。知らなかったのか?」
「母の結婚式の時か。下積み時代のことだから、忙殺されて観光情報なんて調べる余裕はなかったな。それに、僕はまだこれを手に入れてなかったから、耳にしていたとても僕には関係ないから忘れたのかもしれない」
 そう言ってカーヴェは腰の神の目を左手で撫でた。
「だから水中の景色に興味がある」
 カーヴェは浜辺へと降りる階段を見つけ、ずんずんと進んでいく。その後ろをついて歩きながら、アルハイゼンは先行して荷物を宿に送っておいて正解だったと確信した。
 砂浜に降り、靴の先を打ち寄せる波に浸してカーヴェはアルハイゼンを振り返る。
「君は来ないのか?」
「俺はいい」
「泳ぎに自信がないんだろ? 僕が教えてやろうか?」
 差し伸べられた手をちらりと見るが、その手を取るわけにはいかない。正確には、二人揃ってフォンテーヌ廷の街中を水溜まりを作りながら歩くわけにはいかなかった。
「間に合っている」
 アルハイゼンの答えに唇を尖らせ、カーヴェは恐らく悪口を言った。だがその声は滝の落ちる音にかき消され、アルハイゼンの耳に届くことはなかった。
 カーヴェは躊躇いのない足取りで水の中に入り、足のつかない所まで行くと一思いに水の中へと潜って姿を消した。
 カーヴェの消えた水面には大小の泡が浮かんでは消えていたが、数秒もするとその泡も見えなくなった。
「兄さん、お連れさん大丈夫なのかい?」
 一部始終を見ていたのだろう、荷運びをしていた水夫が声を掛けてきた。
「水泳を習ったことがあると言っていたし、彼は神の目を持っているから心配はいらない」
「あー……神の目を持たない俺たちには関係ないが、水神様の加護は滝の下、つまりここら一帯までは届かないそうだ。……なあ、あんたのお連れさん、浮かんでこないが大丈夫か?」
 水夫の言葉を聞き終えるよりも早く、アルハイゼンは水へと飛び込んだ。
 水の中で目を開けるというのはあまりない経験だ。だがカーヴェの姿を探すのには目を閉じていては始まらない。
 少し水中を見回すと、あの特徴的な姿はすぐに視界に入った。比較的水深の浅い場所に留まっているカーヴェに近付こうと試みるが、衣服が邪魔をして思うようにいかない。
 ようやく辿り着いた末に背後からその肩に触れると、驚かせてしまったらしく、カーヴェはごぼ、と大きく息を吐き出した。
 抱き寄せたカーヴェに唇を重ねる。意図が伝わっていないのか、いやいやと首を振って抵抗を見せる彼の鼻をつまみ、舌でこじ開けた口内に無理やり息を吹き込む。
 ようやく事態を飲み込めたのだろう、口を手で押さえるカーヴェに水中を指さすと、今度は彼は素直に頷き、アルハイゼンに手を引かれるまま水面へと導かれていった。
 水面から顔を出すと、先程の水夫が心配そうに砂浜に立っているのが見えた。大丈夫だと手を振って見せると、水夫は何度もこちらを振り返りながら仕事へと戻って行った。
 岸へと戻ったカーヴェは、ぺろりと唇を舐めては「あんまりしょっぱくないな」などと気の抜けた感想を口にしているのだから、いい気なものだ。
「向こう見ずな行動の感想はもっと他にあると思うが?」
「溺れたりしないって。潜ってすぐに水の中で息が出来ないことにくらい気付いたさ」
「だったらさっさと上がってくればいいだろう」
「やけに突っかかるな。僕のことがそんなに大事なのか?」
 からかうような声と表情はアルハイゼンが彼をどう思っているのかよく理解した上でのものだ。
 そちらがそのつもりなら、アルハイゼンとて応えてやるまでだ。
「そうだ。君に何かあっては困るし、君に何かあってから行動しても遅い。君が俺の好意を確認できるくらいには元気そうで何よりだよ」
 目を見てはっきりとそう告げると、そこまで言われるとは想定していなかったのだろう、カーヴェは面食らった顔をした後に気まずそうに目を逸らした。
……悪かったよ」
 少しだけ溜飲が下がる思いがして、アルハイゼンは気分を良くする。
 カーヴェは俯き、アルハイゼンの外套の裾を握った。
「暫くは君についていくから、君の好きなところに行けばいいだろ」
 アルハイゼンは耳を赤くした恋人の手を解かせ、代わりに手を繋いだ。「ちょっと」と抗議の声が聞こえた気がするが、こういう時は聞こえないふりをすると意外と通用することをアルハイゼンは長年の彼との付き合いで学んでいる。
 アルハイゼンはすっかり大人しくなったカーヴェと共に、ゆっくりと港を散歩することに決めた。せめて、服が少し乾くまで。